【知道中国 1664回】                      一七・十一・念九

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田2)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

上海を代表する庭園で知られる愚園と張園を歩いて、「泉石樹林園中に布置いたされ候も全く一顧の價値無之」。そこで「早々退却致し申候」。最後の加賀藩主の息子で子爵である前田からすれば、愚園だろうが張園だろうが、「一顧の價値無之」だったに違いない。

 

次いで「支那の家屋殊に高位豪家」における「盗難火災等に對する防備の周到なる」ことから、「蓋し其防衞を官憲に依頼するも到底頼みにならぬ處より自衞の道を講ずるべく餘儀なくされ」ているからだ。「民人が國家の公力の保護に由らず其身體財産を自家の私力に依りて防衞せねばならぬとは國民にとりては氣の毒」である。その一方で、「四百餘州の山河と四億の民を主宰する國家としては誠に不甲斐なきこと」。「人民が國家に對する感念の薄弱になりゆきて滿朝が滅ぶるも政體が替らうが吾不關焉といふ態度」は、「大いに味ふべきこと」であろう。

 

どうやら「支那の良民にして生命財産を保安せんとして上海の地に移り住む者」が多い。それというのも「上海は支那の領土とは申し乍ら外國の威力」によって守られているからだ。「國民にして其國家の權力の及ばざる外國國旗の支配下に立つべく相率ゐて走るに至るとは驚入りたる國民」というべきだが、「斯く人民をして餘儀なくするに至らしめる國家も國家と驚くのみに御座候」である。

 

防備のために高い塀を廻らせる「支那の家屋園囿は幽靜を極め陰氣臭」く、「天日爲に昏く憂鬱の氣の漂ふ」ようだ。だが一方で、安全至極であり「無爲に化して居り候には至極恰好」である。こういった住宅事情から、前田は「支那の國民性の防禦に專らにして侵攻に拙」であり、「男性的にあらずして女性的」である背景を想像してみせた。

 

次に前田は「理窟めき候へども上海に付き聊か申添度事有之候」と記し、対外関係・通商関係などから上海の地政学上の優位性をしてきしつつ、確かに通商の上で「我國は第二位の優位を占むるとは云へ英國に比すれば其差霄壤も啻ならず」。加えて「新進氣鋭の獨逸の元氣侮るべから」ず。だから「我が同胞の奮勵努力」を大い期待するが、我が国が「中清殊に長江方面に注目着手」したのは最近のこと。「數十年來蟠踞」しているイギリスなどを考えれば「短き歳月の割合より考ふれば目覺ましき發展をなした」と考えられ、今後の一層の努力をきたいする。だが、「只侮るべからざるは獨米の二國殊に獨逸人の質素勤勉熱心の所謂獨逸魂に御座候」。だから彼らに対するには「緊褌一番すべきことに御座候べく存じ申候」と。ともかくも「質素勤勉熱心の所謂獨逸魂」に気を付けろ、である。

 

中国市場を挟んで日本とドイツの関係は、どうやら現在まで続いているということだろう。やはり「質素勤勉熱心の所謂獨逸魂」を侮ってはいけないということだ。

ここで転じて前田は上海の政治的・法的な立場に考えを及ぼす。

 

いったい上海は「支那主權の下に在り乍其實恰も外國臣民の自治の地の如く一大共和國の觀」がある。それは「食客が家の持ち主となり巾をきかすが如」きだ。「支那の國土にあり乍」も「支那官憲の勢力」が及ばないという「奇怪な現象」を呈しているから、「支那の良民は生命財産の保安」のため、「匪徒は捕逃の厄を遁れ」るため、この地に逃げ込む。「上海の國際法上に於ける地位も頗る不明」で、日清戦争の際には「對戦國たる支那に供給する兵器」が製造され、日露戦争においては「我邦に不利益なる事件」が見られたにもかかわらず、我が国は「上海を封鎖砲?すること」ができなかった。

 

こうみてくると、どうやら「上海なるものは支那なる邦國」の将来を示しているようだ。言い換えるなら「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつゝ居るものにあらざるなきかと想像する」。この考えを、前田は「萬更一概に捨てられぬ」とする。《QED》