【知道中国 974】 一三・十・初四
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の4)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「眼鏡の奥に教養の深そうな眼が光っている四十歳前後の温厚な」李徳純さんから、東京での学生時代に『麦と兵隊』を読んだと聞き、火野は「赤面した。同時に昏迷した。警戒心とはちがうが、私の『麦と兵隊』を読んだという言葉が、赤い国のなかで赤い青年によって語られることは私をすくませる」と綴る。「赤面した」のは判るが、なぜ「同時に昏迷し」、「私をすくませる」のか。こうまで『麦と兵隊』に拘泥する理由は何なのか。
また火野は「私は罪の意識におののき、拷問にかけられたような苦しさにとざされているが、他の諸兄はいかがであろうか」と、同行者の心の裡を忖度しつつ、「人間を翻弄する歴史の妖怪性は、私がじかに攻略のために踏み込んだ土地ではない場所にきても、執拗に私にこびりついてはなれなかった」と記してもいる。
深刻ぶったところで、じつはノー天気に火野の反動性を論うしか能のない常久とは余りにも対照的に、火野の“苦悩”は尋常ではないように思える。いったい、火野はどのような「罪の意識におののき、拷問にかけられたような苦しさにとざされている」のだろうか。あるいは火野の「罪の意識」の根源を探るには、兵士時代の彼の立ち居振る舞いを振り返ってみる必要があるのかも知れない。同時にそれは、敗戦から10年が過ぎた昭和30(1955)年の段階で、かつて自らがドロ水を啜りながら戦った戦場を訪れた元日本兵士の心の在りようを知ることに繋がるのではなかろうか。
そこで、暫く火野の旅行記を離れ、一兵士としての火野の足跡を追ってみたい。因みに彼の本名は玉井勝則で階級は伍長。昭和12年の杭州湾上陸作戦には分隊を指揮して参戦している。
昭和13年、小林秀雄は陣中の火野に芥川賞を渡すべく杭州に赴く。同地での感慨を小林は「杭州」に記しているが、そこに当時の火野の姿が描かれていた。
「火野君は、見るからに九州男児と言った面魂の、情熱的な目付きをした沈着な男である。服には洗濯してもとれない黒い油の染みの様なものを方々にこしらえ、ズボンの尻には色の変った大きな継ぎをあて、靴も膏薬だらけといった恰好だ。ずい分ひどかったらしいなと言うと、この靴は三百里あるいているからの、と靴の底を見せ、継ぎは当っとるがどうもなっとらん、軍隊の靴は丈夫だの、と言った」と、小林は記す。
小林によれば、「火野君も戦争のことはあまり話したくないらしい」。それでも杭州湾での敵前上陸前後の情況を小林に聞かせているが、小林は「火野君の戦記に依ると」と断わった上で、日本軍を迎撃した「嘉善付近の(敵)トーチカの数は、杭州入城後の戦跡視察によると、コンクリートのもの一〇三、堆土のもの四〇〇、支那全線に渡って希有な数だったそうだが、それを四日間で強引に突破した」としている。
以上は『世界紀行文学全集』(修道社 昭和46年)所収の「杭州」からの引用だが、じつは戦前版の「杭州」には、「・・・強引に突破した」に続いて、「その時だが、火野君は七人の兵を引き連れ、一番大きな奴に、機銃の死角かを利用して近付き、這ひ上つて、通風筒から手榴弾を七つ投げ込み、裏に廻つて扉をたたき壊して跳り込み、四人を斬って、三十二人の正規兵を×××で縛り上げたと言ふ。一たん縛つた奴は中々殺せんものだ。無論場合が場合なので、わしは知らなんだが、夕方出てみると壕のなかに××××××××××おつた。中に胸を指して××くれといふ奴があつての気の毒で××てやつたがな」という記述があるという。(『日本人は中国をどう語ってきたか』子安宣邦 青土社 2012年)
「一番大きな奴」はトーチカだろう。伏字(「×」)の部分は、なんとか想像できそうだ。中国を旅行する火野の心の裡に、往時の玉井伍長の記憶が蘇ってきたのだろうか。《QED》