【知道中国 1657回】                      一七・十一・仲三

――「即ち支那國は滅びても支那人は滅びぬ」――(佐藤4)

佐藤善治郎『南清紀行』(良明堂書店 明治44年)

 

乞食が額を石に打ち付ける音は、「一町位聞え、泣く聲は三四町きこえる」。「通常人があの眞似を半時間もやれば死んで仕舞ふであらう」。だが死ぬことはない。なにかカラクリがあるはずだ。「そつと後に廻つて見れば、黑布で鉢巻をして居つた。晝間見れば牛肉の血など塗つてやつて居るさうである」。ということは、「黑布で鉢巻」や「牛肉の血」は乞食商売にとっての小道具と考えて間違いないだろう。それにしてもバカバカしい限りだが、「支那人の如き利己的冷淡なる人民の間に於て乞食をするは寔に骨の折れた事である」ことだけは確かだ。

 

「支那人は飲食の慾にきたない事」を見て取った佐藤は、「支那人に三大慾がある」と口を極める。「三大慾」とは「色慾と飲食慾と金錢慾」である。「彼等には美を愛するといふ思想も極めて幼稚劣等で」、「眞理を愛するといふ思想も薄く」、「善を愛するといふ事も通常以上ではない」。そこで「人は食ふために生まれて來たと觀念して居るらしい」と考えた。

 

汽車での旅行中に「二三の支那新聞を買つて見」て、日本で洪水が発生したことを知る。

 

そこで佐藤は「東洋の大洪水」と題された記事に興味を持った。「本年はハレー彗星が出たから、世界何れの國か其禍に罹るに相違ないと思つて居つた處が、日本が其禍を受けた」と書き出され、日本各地の被害状況を詳細に報じた後、「世界國多し。而して日本獨り災害を受けしは何故ぞや。蓋し日本は奸邪の國である。嚮には日俄協約を以て滿洲の利權を収め、今又韓國が合併すとの風説がある。天の日本に災する亦宜ならずや」と結ばれていた。かくて「清國人には左樣に感ぜらるゝかと考えた」のであった。

 

この記事によれば、日本が洪水に襲われた原因は「滿洲の利權を収め」、日韓併合を強行するような「奸邪の國である」からであり、「天の日本に災」するのは当然。つまり洪水は天罰であり自業自得ということになるらしい。また日韓併合に関し、「韓國はもと支那の屬報たりと説き起して悲憤慷慨の筆を振つて居」た記事も目にしている。

 

以上は、日韓併合が正式に実施された明治43年(1910)8月29日より10日ほど前のことである。それにしても佐藤が示す「二三の支那新聞」の記事から判断する限り、本来は清国に属する満州や韓国を日本が収めたことに、彼は余ほど我慢がならなかったということだろう。

 

因みに佐藤が「二三の支那新聞を買つて見」てから1年と1ヶ月ほどが過ぎた1911年10月10日、辛亥革命の砲声が鳴り響き清国は崩壊している。

 

佐藤の南清の旅は、長江中流の漢口、漢陽、武昌で折り返し上海に戻った後、蘇州、杭州など江南の景勝地に転じて終わった。

 

景勝地に関する故事来歴は詳細に綴られているが、旅行ガイド・ブックの域を超えるものでもない。敢えて紹介するまでもないだろうから割愛して、巻末に置かれた「第十七章 南清漫遊の感想」に進むことにする。それというのも、ここで佐藤は旅行を総括しているからだ。

 

先ず地勢について説き起こし、「支那と日本との地勢を比ぶれば、學校の講堂と、數奇を凝らしたる住家の樣である」としたうえで、「支那は統一的の地勢である。數國は併立せぬ。(中略)若し列強の分割となつても、地勢があまりにも統一的であるから、問題は頻繁に起こることであらう」と、地勢のうえからも分割統治は成り立たちそうにないとする。

 

黄河と長江に挟まれた大陸の中心部には「著しき山脈はない」。「地勢の平坦と、大河の通ずる事よりして、勢力の分立の出來ぬ事」は歴史的にみても明らか。一時的には様々な勢力が「分立」することもあったが、やはり「忽ち統一することになる」と説く。《QED》