【知道中国 1656回】                      一七・十一・仲一

――「即ち支那國は滅びても支那人は滅びぬ」――(佐藤3)

佐藤善治郎『南清紀行』(良明堂書店 明治44年)

 

香港留学時の1970年代前半、銀行や貴金属店の店頭には「丈の六尺もある」インド人の警備員が「昂然」と立っていた。初めて目にした時には、目を合わせないようにして彼らの前を「身を縮めて通」ったもの。だが暫く目が慣れてくると、「體格はよいが、元氣が抜け、言動は慥かに亡國人」と思えるようになったから不思議だ。たしかに佐藤の「亡国人」という指摘は肯ける。ことインド人に関するなら、佐藤の時代の上海の租界おける状況は1970年代の植民地香港に通じていたということなのか。

 

佐藤に戻る。これから長江を遡っての内地旅行に備え両替した。そこで「支那にて通用する貨幣は、我國の如く價格の基礎になるのではなくて、品物の如く貨幣自身に相場の高低がある」だけではなく、「それが時々刻々に變化する」ことに驚く。なぜ、そんなことが起きるのか。それは「自國政府の信用がないから」である。しかも「貨幣は各省で鑄造」し、それゆえに「省によつて貨幣が異るから、省より省に移るには兩替をせねばならぬ」。両替するごとに両替屋に手数料を支払うことになるから、「四五省も旅行すれば二三割は兩替屋に取られて仕舞ふ」。だから両替を重ねる毎に、手持ちの額は目減りするという寸法だ。

 

やがて長江を遡る旅に立つ。

 

乗り込んだ「小蒸気船は支那の勞働者を滿載して居る。(中略)過半は上體は裸で、脂が流れ惡臭鼻をつく。その體で相推し合つてベタベタと接するのであるからたまつたものではない」。そのうえ彼らは船内の廊下で「半裸體の儘犬の兒の樣に寝て居る」。だから「斯る風俗習慣の異れる支那人を取扱ふ事は、日本人ではとても出來ぬ」のである。

 

南京の街を歩く。

 

街中の処刑場に出くわす。「支那ではろくに裁判といふ事はしない。故に外人と面倒なる事を引起したる者や、多くの物を盗みし者(例へば主人の金を百二十兩以上を盗めは斬罪)を生存させて置くのは面倒だから、チヨキリとやつて仕舞ふ。誠に手輕な處置である。群衆は平氣で之を見、饅頭を持ち行きてその血に濕し、藥とするといふ事である」。まさに魯迅が『藥』で描き出した世界が、そのまま見られたわけだ。

 

次いで喧嘩である。日本人の「男は街路に出て、支那人と痛く罵り合つて居つた。やがて横面をピシャンとや」って「躍りかかれば支那人の仲裁者が出來て之を遮る」。数百人が周りを取り巻く。日本人は「仲裁者に組み附きながら『なんだチャンコロの二百匹や三百匹やつて來たつて日本男兒だぞ。腕には鋼がはいつて居るぞ』なんてやつて居る。支那人も罵つているが何だかわからない」。「本邦ならば袋叩きにされて仕舞ふべきを、本邦人は支那では斯る氣熖でやつて居る」。後にことの次第を事情通の日本人に尋ねると、「決して支那人は日本人に手向ひはせぬ。又利益のない事には手出しする樣な彌次馬はない。彼仲裁者も後には錢を貰ひに來る。日本人も斯る際には幾らか與へるから、喧嘩をしても結局はもうけられて仕舞ふ」と説明している。

 

「決して日本人に手向ひはせぬ」「利益のない事には手出しする樣な彌次馬はない」「仲裁者も後には錢を貰ひに來る」。とどのつまりは「喧嘩をしても結局はもうけられて仕舞ふ」。かくて佐藤は「國民性の差は恐ろしいものである」と結んだ。

 

たしかに「なんだチャンコロの二百匹や三百匹やつて來たつて日本男兒だぞ。腕には鋼がはいつて居るぞ」などと腕まくりしてイキがってみたところで、「喧嘩をしても結局はもうけられて仕舞ふ」わけだから、矢張り骨折り損の草臥れ儲けが関の山ということだ。

 

次いで訪れた漢口で深夜の街で「大聲を擧げて泣きつゝ物乞ひせる若者を見た」。敷石の上に坐し、「米を搗く樣に額をしたたか石に打ちつけて泣」いていたのである。《QED》