【知道中国 1654回】                      一七・十一・初七

――「即ち支那國は滅びても支那人は滅びぬ」――(佐藤1)

佐藤善治郎『南清紀行』(良明堂書店 明治44年)

 

佐藤善治郎(明治3=1870年~昭和32=1957年)は千葉県生まれ。代用教員を経て千葉師範学校を卒業し教壇に立った後、東京高等師範学校に学び、神奈川師範学校で教師に。横浜高等女学校、横浜実科女学校、精華小学校などの創立に参加。

 

明治43(1910年)7月28日に横浜を出発し、30日ほどをかけて上海、南京、漢口、蘇州、杭州などを廻った折の記録が、本書である。帰国直前の8月22日は日韓併合条約が締結され、翌明治44年は年明け早々に大審院から大逆事件に関連し幸徳秋水ら24被告に死刑判決が下されている。その翌年の明治45年7月30日に明治天皇が崩御され、明治から大正へと改元された。中国に目を転ずると、亡国の道をひた走る清朝に止めを刺すことになる辛亥革命は、明治天皇崩御の10ヶ月ほど前の1911(明治44年)の10月である。

 

日本は明治から大正へ、中国は清国からアジア最初の立憲共和政体の中華民国へ。両国ともに新しい時代を迎えようとしていた。

 

巻頭の「南清紀行序」は、「清國、今や列國競爭場裡の落伍者となり、國運陵夷、人情荒廢して殆んど見るべきものなし。故に本邦諸般の施設は、範を歐米に取り、亦清國を顧みる者なし。故に歐米の事情の多く世に知らるゝに比して、清國の事情の意外に知られざるあり。是れ果してその當を得たりと言ふべきか」と書き出される。亡国の瀬戸際に立っているからこそ、「清國の事情」を知るべきだ、というのだろう。

 

次いで目的地に長江流域を択んだ理由を、「惟ふに南清の地は、支那の寶庫」だからであり、「本邦と一葦帶水を隔つるのみ」の関係にあるばかりか、「世界列強皆眼を茲に注ぎ、着實なる經營を爲さざるはなし」だからだ、と綴る。「東洋の盟主を以て自ら任ずる國民」であるなら、やはり長江流域に経済的影響力を扶植すべきであり、であればこそ「之が事情に通ずること甚だ緊要なりと謂ふべし」。

 

加えて歴史的にみるなら「支那は我先進國」であり、我が国は多くを学び「現代文化の基礎」とした。いまや立場は逆転し、「東洋の盟主として起てる我國民は、二千の留學生を受け、數百の敎習を送」っているが、じつは「大いに彼國を開發誘導するの任務あるべし」。ならば日本の教育者や学者は、この事態に積極的に関与すべきである。

以上が南清旅行を思い立った佐藤の動機ということだろう。

「南清紀行序」の末尾には「明治四十四年十月八日」の日付が記され、続いて「此序を草して後新聞紙を見れば、十月九日革命黨の隱謀漢口に於て發露し、翌日は第八鎭反して武昌城陷る」と、1年ほど前に歩いた漢口から辛亥革命の火の手が上がったことに驚きを示している。佐藤は一連の動きを「天下の大動亂」と見做し、「彼國の英雄の手に唾して起るの秋、漢楚軍談、三國志以上の壮觀」は日々新聞紙上に躍っているが、「将來革命軍の運命は如何あらん。列強亦決して手を拱するものにあらず」とも捉える。我が国を「東洋の盟主」、清国を「列國競爭場裡の落伍者」と捉え、佐藤は「東洋の盟主」であればこそ革命後を見据えて妄動する列強に後れを取るな、と言いたいのだろう。

 

さて「東洋第一の大港、經濟の中心で、貿易額は支那全國の過半を占」めている上海が、「今眼の前に顯はれた」。目に入る大廈高楼の「畏ろしい威勢」に驚くが、「それが我國のものであると聽いて雀躍した」。さすがに「東洋の盟主」だ。だが、外国居留民の1万6千人余の半数を日本人が占めるにもかかわらず、租界行政を担当する参事会は「英國人七名、米國人一名、獨逸人一名」によって運営され、日本人は関わることができない。「これを見ても我國人は甚だ資力を有せぬといふ事が言へる」。「其原因は一は資本を持つもの少なく、一は年未だ淺き故である」。これが上海における「東洋の盟主」の現実であった。《QED》