【知道中国 1653回】                      一七・十一・初五

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林9)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

天津で日本人が誇るべきは「今の(在北京の)伊集院公使が總領事の時」に建設した劇場だった。劇場が出来たおかげで、「附近が著しい振興を來たしてゐる」。それというのも、「支那ことに北清では、劇場は社會と密接な關係を有して居る」からだ。「人と交る、直ぐと芝居、人を招く、直ぐと芝居という風に、社會組織の上に、なくてはならないものになつてゐる」。「ここを見越しての芝居は大當りに當つたのである」とのこと。

 

「吃喝嫖賭」に加え「去聴戯」と「抽大烟」は、かつて彼らの文化――《生き方》《生きる姿》《生きる形》――の柱だった。食べて(吃)・呑んで(喝)・買って(嫖)・賭けて(賭)、芝居を愉しみ(去聴戯)、そしてアヘンを吸う(抽大烟)である。芝居見物は社交の場であり、時に商談の場であり、オ代官サマと越後屋の密談の場にもなった。ここに着眼したというのだから、劇場建設を持ち出した伊集院公使の慧眼に敬意を表しておきたい。

 

劇場を後に日本人倶楽部へ。天津の「在留邦人二千のうち此の會員二百人」で、主だった会員の30人ほどが歓迎宴を開いてくれた。

 

「やがて食卓の上に膳が運ばれる。此地に居る日本の藝妓十餘名が酒をすゝめる」という段取りだ。そこで小林は「藝妓のことを少しばかり物語らう」という。

 

なんでも「わが商業の海外發展がまだあまり振はないのに反し、紅裙隊の遠征は千里を遠しとしないで、深山の奥のその奥までも足跡を印して居る。上海より江上四五日もかゝる漢口にさへ、四五十人の藝妓が居る位であるから北京、天津に活動しているのは無理もない話である」。彼女らの出身地は山口や福岡が中心で、せいぜいが大阪まで。「それより東國の者は一人もないと云つていゝ」。

 

「少しばかり金を儲ければ歸國するといふやうな考」えの男に対し、「紅裙隊」は中国大陸の「深山の奥のその奥までも足跡を印して居る」。そういえば女衒の親玉だった村岡伊平次は自伝に、彼女らの姿――たとえば元旦、村岡は香港在住の「紅裙隊」を引率してビクトリアピークに上り、皇居の方向を遥拝した――を記した。嗚呼、「紅裙隊」よ!!

 

やがて小林の足は奉天に向った。

 

「奉天滿鐵停車場へ着く」。寒い。「足は氷るやうに覺える。處々には日本式の商店も見えるが、如何にも微々たるものばかりである」。同地の在留邦人は3000人ほどだが、「段々衰へる一方で、富を得ぬ者が多いからとのことである」。「奉天へ入れば日本内地へ歸つたやうだらうと想像したのは案に相違して」、日本人が勢力を張っていたのは「戰爭當時のほんの一時」のことで、「今は日本語も通ぜず、紙幣も信用がおち」てしまった。横浜正金銀行の取引先は「皆支那人であるとか、日本人には銀行と取引をするまでの財力あるものがないと見える」。かくて小林は「戰勝の餘榮今何處にあるかと云はなければならぬ」と嘆く。

 

「奉天の将來は餘程邦人が一生懸命にならぬと絶望の地となりはしまいか。第一今は商業が振はず、輸出も豆と豆糟位のもので、輸入も大したものもない」。加えるに馬賊が跳梁跋扈するので、対策のために列車に兵士を配すが、「外人はこれをひどく嫌ふといふことだ」。また、「その兵士が支那人の辮髪を引張つたり何かするので支那人も嫌つて」いる。

 

小林は『支那印象記』の冒頭の「序」の末尾に「島の若者の一人はどつちが大人だか、小人だかわからないように思ひながら歸つて來た」と綴り、この旅行で「大層得るところがあつた」。それというのは「『人の眠てゐる國』の覺醒した暁を考へて、しばらく夜着をかけていたはり、やがて起き上つたら手をとつていつしよに歩かなければならないと思つた」と結んだ。やがて迎える大正の時代には、「起き上つたら手をとつていつしよに歩」こうなどという心優しい思いは吹っ飛ぶことになる。疾風怒濤の時代が待っていた。《QED》