【知道中国 1652回】                      一七・十一・初三

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林8)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

北京各所の名勝古跡を廻って、「凡そ支那で見る建築物は結構は頗る大きいが、處々に荒れはてた樣のないものが少なくない。作る時は規模中々雄大であるが、後には荒れ果てゝも放つて置くのが習ひである。これは宮城の塀がくづれて居るのでもわからう」。ともかくも作ったら作りっ放しということ。「尤も切りに大建築の起るのは、一つには其爲めに當局者が大金を攫み得るからでもある」。役所の建物にしても、使えなくなるまで放って置き、いよいよ再建となった時点で「多くのコンミッションが湧き出るのを待つ爲めでもある」。

 

上がそうなら、下もそれに靡く。たとえば「銀行や會社なども資本金がどしどし重役の懷中に入るので、切りに新設されるが、また切りに破滅するといふことだ」。何事につけても「コンミッション」の世の中ではあるが、「これも餘り他國の事を笑ふことは出來ない」と“留保”している点を、やはり忘れるわけにはいかない。

 

北京を囲む城壁に穿たれた多くの門の1つである安定門の近くに在る孔子廟に出向く。

 

清朝になって「宮殿御陵の外には許されないといふ黃瓦」で屋根が葺かれるようになった。かくも清朝は孔子を貴んでいるはずだが、「その門が黃金のために開かれ、その黃瓦が四弗で賣られて居るのを見て、地下の孔子は如何なる感慨を催してゐるであらう」と記す。門番に小銭を握らせれば中に入れてくれるし、黄瓦すら屋根から引き剥がしてくれるというのだから、「修身斉家治国平天下」に象徴される孔子の教えや「支那道德の大則」は、現実には地に墜ちたも同然だ。いや始めから、その程度のものだったとも考えられる。

 

こういう現実を前に、小林は孔子の「敎義もつひには黎明の星の光のやうに消えてゆくのである」。「支那の南方からこの北の都まで、西歐思想の流れがいたるところに持ち上がつて居るのを見る」が、「この國本來の儒敎なり、印度から來て一時はこの國の思想界を風靡した佛敎なりの黑影は次第にうすくなりつゝある」とした。

 

どうやら小林の眼には、この国のイビツな姿が映ったようだ。

 

孔子廟の帰路に見た滿洲婦人のいで立ちは、つま先から頭の天辺まで大時代風に仰々しい。時代の変化も知らぬげに、高位高官は清朝盛時のように多くの従僕に守られ街を行く。「こういふところを見ると支那はまだ大名時代の觀がある」。自動車が限られた道路しか運転できないのは「大官の馬が驚くから」であり、北京に電車が走っていないのは電車が「人を殺すから」だという。なにからなにまでがこれで、「文明の程度を推しはかられ見つともないものなのだ」。最低・最悪ということだろう。

 

さて北京の商店街。賑わっているのは「矢張り英獨の二國のそれである」。これに対し「日本の商店は資本が小さい、從つて店構へが貧弱であるから、大資本と政府の後援を得て、花々しく打つて出てゐる歐米諸國と比肩するわけには行かない」。日本の商店のなかには「トタン張りの一間間口といふ情けない雜貨店もある」ほどだ。北京がこうなら、大陸全体もそうだっただろう。では、なぜ日本の商店は「大資本と政府の後援を得」ることができないのか。はたまた我が「大資本と政府」は支援をしないのか。

 

やがて北京を離れ、「歐洲の大都會を縮小して持つて來たやうな觀がある」天津へ。

 

先ずは日本租界を見て回る。「まだ多くの空屋が新來の奮闘家を待つて居る」。やはり「目下のわが商業は遺憾乍ら不振と云はざるを得ない」。その原因の1つが「わが商業家が浮薄な爲め」であるからだ。「凡そ海外に出ても、少しばかり金を儲ければ歸國するといふやうな考では、成功するものではない」。「邦人は多く一時の小成功を目標にしてゐるから、よし失敗に終らずとしても、大なる成功は望まない」というのだから、「皆一生の事業として、落ち着いて取かゝつて居る」ような西洋人には太刀打ちできない・・・何故だ。《QED》