【知道中国 1651回】                      一七・十一・初一

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林7)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

「東洋文明新築の理想」は確かに美しく理想的理念ではある。だが「大體年々五六十萬人づゝ人口が増加する日本人が、将来骨を埋むべき青山」は、はたして「支那を措いて」は他にないのか。「支那を研究せよ。支那に渡來せよ、支那に事業せよ。さうして支那を愛せよ」と説いたところで、それを「支那」の側が喜んで承知するとは思えない。「東洋文明新築の理想」を掲げたところで同じだろう。

 

おそらく小林の隣席が「東洋文明新築の理想」を口にした時、彼の頭の中には「アジア主義」の6文字が過ったはず。それは、明治初年に上海に渡り日支提携を掲げた岸田吟香以来の志士たちの思いに通ずるものがあったに違いない。だが、その後の歴史を追ってみれば、それはまた小林のいう「人の眠てゐる國」に対する「その國の傍」の「あまり大きくない島」の若者の“片思い”に過ぎなかったのではなかろうか。じつは「人の眠てゐる國」は、「その國の傍」の「あまり大きくない島」ではなく、「遠い海を越した先の、『人の醒めてゐる國』」を、同時に「人の醒めてゐる國」もまた「人の眠てゐる國」を見据えていたのではなかったか。

 

ここでやや飛躍して現在を考える。

 

鄧小平が開放政策に踏み切った時、彼らが強く求めた先進技術と豊富な資本を提供しうる国は現実的には日本しかなかった。小林流に言い換えるなら、「その國の傍」の「あまり大きくない島」との関係が、「人の眠てゐる國」の外交の全てだった。日中関係こそ、鄧小平の中国が将来を見据えた時の最大の救い手だった。日本もまた日中関係が対中関係の全てだった。

 

だが、やがて「人の眠てゐる國」に多くの「人の醒めてゐる國」が乗り込みはじめるや、「人の眠てゐる國」はアレヨアレヨという間に“俄か成金”へと変身した。「あまり大きくない島」のエライ人は、経済が発展すれば「人の眠てゐる國」も“マトモナ国”になると思い込んでいた。なんらの根拠もなく。これを、お人好しというのだろうに。

 

かくて「人の眠てゐる國」は、それまでみせていた“韜光養晦”の振る舞いから居丈高な姿勢に転じた。「人の眠てゐる國」の対外関係における「あまり大きくない島」の比重は下がるばかり。にもかかわらず自らを客観視することが必ずしも得意ではない「あまり大きくない島」は、「人の眠てゐる國」に向けた視線を根本的に改め直すことができない。惰性のままに、元「人の眠てゐる國」と「人の醒めてゐる國」の関係にきりきり舞いするばかり。いま「あまり大きくない島」にとっての急務は、「人の眠てゐる國」との関係において逸早く旧套を脱することだと強く思う。

 

そこで改めてアメリカ初代大統領の「訣別の辞」の一節を示しておきたい。

 

「国家政策を実施するにあたってもっとも大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い感情をいだき、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことがあってはならないということである。[中略]他国に対して、常習的に好悪の感情をいだく国は、多少なりとも、すでにその国の奴隷となっているのである。[中略]この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益とを見失わせるにじゅうぶんであり、[中略]好意をいだく国に対して同情を持つことによって、実際には、自国とその相手国との間には、なんらの共通利益が存在しないのに、あたかも存在するかのように考えがちとなる」(アルバート・C・ウェデマイヤー『第二次大戦に勝者なし』講談社学術文庫 1997年)。

 

であればこそ、いま我が国が為すべきは「永久的な根深い感情」やら「熱烈な愛着」を封印し、かつての「人の眠てゐる國」を冷静・冷厳に客観視することだろう。《QED》