【知道中国 975】 一三・十・初六
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の6)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
昭和13年10月12日、バイアス湾に敵前上陸。同月3日、広東入城。それから14年12月まで、火野は広州で暮らしている。「無論、兵隊として、占領者として」。だから「広州駅の表に出ると、なつかしいというよりも、恐ろしいところに来たような奇妙な気おくれを感じた。16年前の思い出が或る苦しさをともなって、一挙に私の脳裏で回転した」。
敗戦から10年が過ぎた昭和30年、戦時を送った中国の地に、しかも中国側の招待で立った火野が感じた「奇妙な気おくれ」「或る苦しさ」こそ、あるいは中国側の狙いだったのかも知れない。「奇妙な気おくれ」「或る苦しさ」を体感させることで、ある種の贖罪意識を喚起させ、植えつけさせようとしたと考えるのは、果たして思い過ごしだろか。
「恐ろしいところに来たような奇妙な気おくれを感じた」火野だったが、やはり16年前を思い出す。「見覚えのある並木路と街角。街の様子はほとんど変わっていないが、昔よりずっと賑やかになっている気がした」。当時も賑やかだったが、それは占領治下の歪なものだ。そこで火野は「この直感が正しいかどうかわからないが」と断わった上で、「いま見る広東は昔にくらべてずっとのびのびしているように見えた」と綴る。
「昔のままにそびえたつ十六年ぶりに見る愛群ホテル」に一行は宿をとる。火野の同室は「鶴岡さん(部落解放委員会)」だった。
早速、ホテルの窓から広州を貫く珠江を眺めながら、16年前に「討伐や宣撫工作のため」に珠江を船で行き来した往時を思い出す。特に仏山鎮での思い出が強烈だったようだ。しばし火野の回想を追いかけてみよう。日本軍兵士の眼に映じた、戦争時の中国の地方都市の雰囲気を知るために。
「そこでは盲妹が名物であった。盲目の売春婦だ。逃げないため、客のえりごのみをしないため、房事に専念させるため、楼主が人工的にかかえ女の眼をつぶすのだった。仏山鎮には盲妹のいる妓楼が軒をならべ、街ではよく盲妹が杖をひいて歩いているのを見た。四、五人一本の杖につながって歩いているのなど、哀れをもよおした。また残忍な楼主への怒りを燃やした」。「この愛群ホテルも以前は野鶏の巣で、ボーイが女を世話することは香港と異ならなかった」。「眼下に見える蛋民船のなかにも、女が胡弓をひきながら客をよぶ花艇があった」。因みに野鶏とは街娼、夜たかのことである。
こう回想する火野だが、「無論、いまはそういう女たちは一人もいなくなっているであろう。新中国からは一切の売春制度、売春婦が一掃されたといわれているからである」と現実に引き戻るのだが、じつは一夜明けた朝の広州をぶらついた火野は、「珠江べりでパンパンを見た」というのだ。その顛末は後に紹介することとして、以下に花艇と盲妹についての我が青春の思い出なんぞを――
それは香港での留学生活に慣れはじめた1971年新春だったように思う。友人中の兄貴格の1人が「今夜は舟遊びだ」と。彼が雇った小船に5人。幸か不幸か麻雀のできない私は、4人が愉しむ麻雀を横目に1人でビールを。徐々に夜も更けてゆく。やがて音楽を奏でる小船が近づいてきた。花艇だ。コチラのリクエストに応じて日本の曲も演奏する。居酒屋風の小船もやってきた。狭い船の上だが、手際よく上手そうな小料理を作ってくれる。
船は防波堤に囲まれた船泊まりの中を行きつ戻りつ。真っ暗な水面にビルのネオンがキラキラと映える。その先に舳先をこちらに向けた数隻の小船が見えた。舳先には煌びやかな衣装の盲妹が色鮮やかな緞帳を背に嫣然と坐り、緞帳の隙間から淡いピンクの灯りが漏れる。やがて船泊まりは埋め立てられ高層マンションに。盲妹も花艇も消えてしまった。
我が昔話はこの辺で切り上げ、本題の火野の新中国探訪に戻ることにしよう。《QED》