【知道中国 1650回】                       一七・十・卅

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林6)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

小林の説く「日本の名士」は実際に足を運び現地の生の姿を知るべきだとの意見に対し、隣席の人物は「支那人は國家觀念がうすく個人主義です。それもいゝがどうもまだ定まつた文明の思想形式が整つて居ない、と云ふと日本も西洋から見たらさうかも知れませんが、兎に角支那は其の點では一層激しく荒れて居る。だから東洋人たる吾々はどうしても支那を開拓し、共に研究しつゝ手をとつて親切に導いてやらねばならないのです」と応えた。

 

西洋人の基準に立てば「定まつた文明の思想形式が整つて居ない」という点では両国は大差ないようだ。だが、日本から見れば「兎に角支那は其の點では一層激しく荒れて居る」。だから同じ「東洋人たる吾々」が「支那を開拓し、共に研究し」ながら彼らを善導しなければならない。これこそが「東洋人たる吾々」の責務とでもいうのが、隣席の考えだろう。

 

そこで小林は、その昔は「日本から恭々しく遣唐使を派した時分」もあったわけで、「今日の富者は必ずしも明日の富者ではない」ことを考えるべきだと語り、さらに「それにしても現代の支那思想が歐洲の近代思想と似て居るのは頗る面白い」ことであり、であればこそ「支那が存外立派に西洋思想を解釋し融和するかも知れませんね」と話題を振った。

 

だが相手は小林の考えを正面から受け止めることなく、「兎に角東洋の富源として空地として西洋が支那に對して覺醒し活動しだしたのは非常なものですから」と話題を転じた。

 

これに対し小林が「長江に於ける各國?船の競爭」「北京に於ける列國形勢」「各大都會の列國商人の活動」を見ても、やはり「支那を研究し、支那に事業をやる日本人がもつともつと出なければだめです。」と口にする。そこで相手は勇ましくも「東洋文明新築の理想・・・・・・」と説きはじめる。

 

これを承けて小林は「東洋文明新築の理想」は「前途程遠い」ことではあるが、毎年5,60万人の割合で人口が増加する日本の現状からして、日本人が「将來骨を埋むべき青山は支那を措いて何處にあるでせう」と水を向けると、「日本に御歸りでしたら同胞へ傳へて下さい。支那を研究せよ。支那に渡來せよ、支那に事業せよ。さうして支那を愛せよと」。これに対し小林が「支那を愛せよ。・・・・・支那は實に愛さなければなりません」と応じ、やがて両者の会話は終わる。

 

「東洋の富源として空地として西洋が支那」を捉えているのであるから、日本はこの動きに遅れを取ってはならない。「支那を開拓し、共に研究し」ながら、やがて「東洋文明新築の理想」を実現させなければならない、と主張するのが公使館における宴席での隣席。「支那を愛せよ」では同じだが、「現代の支那思想が歐洲の近代思想と似て居るのは頗る面白い」ことであり、だから「支那が存外立派に西洋思想を解釋し融和するかも知れません」とする小林。

 

この両者の考えの食い違いに、中国に向き合う際の日本人の姿勢の違いが現れているように思える。いわば中国を「東洋の富源として空地」として見做すのか。遅れた「支那を開拓し、共に研究し」導き西洋に対処し「東洋文明新築の理想」を実現させようとするのか。「東洋の富源として空地」であればこそ飽くまでも“他者”として対応するのか。はたまた断固として「東洋文明新築の理想」を目指す“仲間”として交流を積み重ねるのか――それぞれに日本の中国と西洋に対する立ち位置は異なる。つまり日本は自らを西洋の近くに位置づけるのか。それとも中国の側に立つのか。

 

前者が西洋的覇道で、後者が東洋的王道ということになるだろう。かくて日本にとっての中国は「東洋の富源として空地」なのか。はたまた「東洋文明新築の理想」を実現する場所なのか。選ぶべきは西洋的覇道か。東洋的王道か・・・永久運動的大命題だ。《QED》