【知道中国 1649回】                       一七・十・念八

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林5)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

やがて小林の乗った汽車は北京へ。早速、中心部の天安門の近くに位置する「公使舘街ともいふべき東交民巷」に向った。ここには「英国、德國(獨逸)、荷蘭(和蘭)、美國(米國)、露國(俄國)、法國(佛國)、奥國(澳國)、伊國、及び日本の各施署(即公使舘)が構を接して」いる。各国が義和団制圧を機に「駐屯軍を置いて儼然と威風をなびかせて居る」。このような東交民巷の姿を列強各国による中国制圧の象徴と捉える小林は、「この小なる支那分割の一廓を見ても、各國勢力消長がうかゞはれるが、斯うされるやうになつたのは」、清朝最後の独裁者でもある西太后が徒に排外主義に走り、義和団の排外暴動に“お墨付き”を与えたからだ。だから権力者の自己満足が列強の介入を招き、権力者が自己満足に奔るごとに「支那の小人」は被害者となる、と結論づけた。

 

早速、日本公使館の手配で北京の街を廻る。

 

先ず、歴代皇帝が天を祈る天壇。ここは「清國に祭中の首位にあるもので天子自ら天を祭るところ、四十萬坪といふ大禁苑である。こゝも昔しは外國人にも滅多に見せない處であつたが」、義和団事件後は綱紀が乱れ外国人の出入りも不問になった。「入口の門の處には鍵をもつた幾人かの番人が手を出して待つて居る。それに錢をつかませると直ぐと門が開く」。かくて「綱紀も一たび弛むと呑氣なもので、これでは天に祈つても餘り祈り効のない事であらう」と。

 

天壇の中心の神殿である祈年殿でも状況は同じ。「粗造ではあるが、堅固で耐久的」な瓦が欲しくなった。そこで「一弗つかませると、直ぐと門番は壞して持つて來るのは愛らしくもまた淺ましい限で、彼等の眼中には國家も何も無い。否自己以外を思ふ餘地が無いであらう」と記した後、門番の振る舞いに「この國人が極端なる個人主義の實際的傾向」を見て取った。かくて「若し數百の外人が來て、悉く瓦を所望したら一瞬の間に屋根は裸體となるであらう」と予想する。

 

我が財布のためなら祈年殿がどうなろうと構いはしない。「個人主義の實際的傾向」とは、いわば後は野となれ山となれということだろう。最近、日本でもやっとメディアが伝え問題視し始めた中国人観光客を相手にして中国人による白タク行為だが、「個人主義の實際的傾向」と考えれば、なにやら理解できそうだ。日本の交通法規もタクシー業界事情・内規も関係なし。中国人の白タク業者が儲かり、中国人観光客が日本業者の相場より安上がりの旅行が出来ればそれでいい、というリクツか。身勝手も極まれり、である。

 

ここで翻って考えれば習近平政権が掲げる「中華民族の偉大な復興」も「中国の夢」も、それを現実化した一帯一路にしても、とどのつまりは超ド級の「個人主義の實際的傾向」といったところ。さて、今後の世界は彼らが生活信条でもある「個人主義の實際的傾向」と如何に対応し、どう抑え込むべきか。いやはや悩ましき限りの大問題だ。

 

一夕、小林は公使館の宴に列した。居並ぶのは伊集院公使、「支那通の聞えある青木少将、岡田志田兩博士、小田切正金取締役その他」の北京に住む日本の有力者たち。小林の隣席に座った「某氏と語つた對話の一節」から、当時の北京在住日本人上層の考えを想像してみたい。

 

小林の「日本人は、よく支那人は抜けて居ると云ひますが、私は支那は悧巧だと思うふのですが如何でせう」との質問に、「それは中々馬鹿どころではないです。日本人の或者が支那人に對して、西洋人の或者がとるやうな觀方をするのは大間違いなことです」と。どうやら日本人が西洋人のように振る舞うのは「大間違い」らしい。そこで小林は日本が朝鮮に力を注ぐのも良いが、「日本の名士がもう少し支那へ來るといゝでせうね」と。《QED》