【知道中国 1648回】                       一七・十・念六

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林5)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

やがて小林は長江を遡って船旅を。

 

某日夕方、九口に着く。「此處も港口は洋館が多く並んでゐる。が英國會社の繫船場が最好の位置を奪つて居るのに反し、日本のは一番末に追ひのけられ、乘船には一番不便の地位に居る。日英同盟などヽ安神してゐる間に、英人はどしどし巨利を占めて行く。馬鹿正直は決して最上の商略ではない。青年は斯ういふ處へ來て腕だめしをしなければならない。洞庭湖畔に水荘を造るの概がなければならない」。

 

当時の国際社会において、日英同盟は日本の影響力を高めるうえで大いに役立ったとの評価がある。一面では正論だろう。だが、「日英同盟などヽ安神してゐる間に、英人はどしどし巨利を占めて行」ったこともハッキリと記憶しておきたい。やはり国際社会においては「商略」のみならず外交においても、「馬鹿正直は決して最上」ではないからだ。

 

日本人は「馬鹿正直」を貫くことを美徳とする。だが日本外交の歴史を振り返ってみると、その「馬鹿正直」が日本の手足を縛り、大いなる躓きの石になったことも少なくはない。それが判っていながら「馬鹿正直」の道を択び突き進むのも日本人だ。とはいえ「馬鹿正直」⇒大損という悪循環は断固避けねばならない。そのためには、やはり日本を取り巻く大状況を「馬鹿正直」なまでに徹底して客観視し、次の一手を考えるしかない。

 

ところで「青年は斯ういふ處へ來て腕だめしをしなければならない」と記しているところをみると、当時の青年も内向き志向だったということか。ならば現在の若者と大差ないではないか。

「東洋の紐育と云はれる漢口」へ上陸し、「領事舘と正金銀行と三井の外何もなく數萬坪に草ばかり茂つて落寞を極めて居る日本租界を通つて、松の家旅舘に入いる」。小林は「殖民地の場末のやうな」と表現しているところをみると、列強諸国に較べ、漢口における日本の存在感は薄かったということか。

 

某日、漢口対岸の漢陽にある漢陽製鉄局に足を運ぶ。当時の近代化策に沿って建設された最先端製鉄工場で、レール製造工程を見学すると、「普通は一日に二百本、ことによると一千本も造るといふ。これは或は白髪三千丈の類かもしれないと思」うのだが、この工場人でも「指揮者は二十餘人の獨逸人で、支那は工夫なのだから氣の毒なものである」。つまり近代的製鉄工場と誇りはしても、中国人は肉体労働を提供するだけ。実際はドイツ人が動かしているというのだ。嗚呼、ここでもドイツ人なのか。

 

籠で市街を散策すると、「幾人かの乞食が拝跪して憐れみを乞うてゐる」。そこで「銅貨を投げれば、そこらに見てゐた里の子や、婆さん達まで飛んできてひろつては雀躍して喜ぶ」。毎度お馴染みともいえる光景を目にして、「あらゆる粉飾を去つた、無論去らざるをえざらしめたものであらうが、自然人を見ては、虛禮虛飾に滿ちた世を思うて、心から彼等を愛せずには居られなかつた」と。

 

やがて漢口から「白耳義のシンジケートで經營され」ている京漢鉄道で北京に向け北上する。「滊車が段々北へ進むに從つて、地の痩せて荒れてゐるのが眼につく。北支那には長江沿岸のやうな水利がなく、かれに見るやうな白壁がない。灰色の半ば壞れたやうな壁に牢獄のやうな小窓がついたいえばかりである」。

 

とある田舎駅。大勢に見送られた役人が乗り込んで来た。大仰で慇懃無礼な態度を見て、「田舎へ出ると、權力が増大して、忽ちお山の大将となり、都府に入ると忽に野原の一兵卒となつて、上役の御小言頂戴の身の上となる。官人の生活も亦面白いではないか」と。慇懃無礼な彼も「お山の大将」も今日まで。北京においては「野原の一兵卒」である。《QED》