【知道中国 1647回】                       一七・十・念四

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林3)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

欧米人は「無限の勢力をこの荒野に張らうとして、切りに樣々の企畫をめぐらす」。これに対し日本人は「百や二百の金を後生大事に蓄へ、學生と同じ月八圓の飯を食つて」日を過ごす。これでは、どちらが「支那人の冷笑を買」うかは明らかだろう。どうも日本人は「學生と同じ月八圓の飯を食」うこと、言い換えるなら現地人と同じ目線に立つことを“是”とする傾向が強い。いわば上から目線の欧米人に対するに同じ目線の日本人という構図である。圧倒的物量によって相手をねじ伏せてしまう欧米とは対照的に、日本人は彼らと同列に振る舞うことで仲間になりたがるが、それが却って相手に軽んじられるのである。

 

「冷笑を買」うとは相手に舐められることであり、「支那人の冷笑を買」うとは彼らに軽んじられること。であればこそ、ここで考えるべきは「支那人の冷笑を買」うのは日本人でこそあれ、決して欧米人ではないということではないか。

 

かく考えると、清末以降の日本朝野の対応――亡国の清国にテコ入れし、共に立って欧米の侵略からアジアを守ろうとしたアジア主義的行動の是非を再検討すべきだと思う。これを敷衍するなら、頭山満に代表される大アジア主義から石橋湛山が主張した小日本主義に至るまで、およそ20世紀前半の日本に見られた日本の生き方、日本の世界に対する処し方を徹底して再検討すべき時期に、いまは立ち至っていると痛感する。些か遅きに失した嫌いがなきにしもあらずではあるが。

 

小林の旅を急ぐ。

 

南京の街や名勝古跡を廻り管理のいい加減さを目にした小林は、「斯ういふ處を見ても凡ての調子が善く云へば大よう、惡く云へば間抜けである。がせゝこましい島國から見ると何もかもが羨ましいほど大國の襟度がある」と綴る。たしかに「せゝこましい島國から見ると」「間抜けである」。だが「大国」であるかどうか、さらには「襟度」があるかどうかは別として、あれほどのだだっ広い国にあれほどの人口(それも抜け目なく一筋縄ではいかない)である。「大よう」に構えない限りやってはいけないだろう。ここで付言するが、「大よう」とはテキトウ、あるいはイイカゲンの別の表現だと理解願いたい。

 

阿片の香に包まれて過ごした7日間の南京滞在を切り上げて長江を遡る旅に立つ朝、「朝飯は洋務局の食事で濟ませた」が、その朝食は洋務局(外務省)の玄関で煮炊きしたものだった。「外務省の玄關が御料理の調進、このやうな善い國が世界の何處にあらうか」と、小林は「をかし味を禁ずることは出來なかった」。加えて前夜にボーイに与えておいたチップの「効果は忽ち現はれて」、「コニャック、葡萄酒が卓上に並ぶ」。だが客に一杯薦めるだけで、「殘りは、客が去ると直ぐボーイが飲んで仕舞ふ」。それも隠れて飲むのではなく、あたかも「個人の權利でもあるかのやうに公然と」。

 

それだけではない。「最も面白く感じたのは」、昨夜の大宴会の後の大食堂を覗いてみると、「數十人のボーイが主人と同じ食卓に、同じ食器で殘のものを食つて居たことである」。ここから小林は考えた。じつは「主從の別」というものは「時の前後にあるばかり」ではなかろうか、と。かくて「この一事を見ても支那學は、もう既に廢滅して用をなさない事を知るのであ」った。そう、当時、既に我が「支那學」はバーチャルな中国世界を語りこそすれ、現実の中国理解には用をなさなくなっていたのである。

 

これまた香港留学時。レストランの特等席でコックはじめ従業員が揃って豪華な料理に箸を動かしていた。彼らの食事が終わらない限り開店とはならないのである。料理が食べ残されれば、チャーハンなどは客が箸をつけた部分のみを捨て、残りを別の皿に取り分けて従業員が食べていたっけ。ケチではない。“中国の特色”を秘めた合理性・・・かな!《QED》