【知道中国 1645回】                        一七・十・廿

――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林1)

小林愛雄『支那印象記』(敬文堂 明治44年)

 

小林愛雄(明治14=1881年~昭和20=1945年)は東京生まれの詩人・作詞家・翻訳家で、夏目漱石や佐佐木信綱は師匠筋に当る。東京帝国大学英文科卒業後、東西の音楽や歌劇の研究・保存・創作・演奏を目的に「楽苑会」を結成した。日本のオペラ界の草分け的存在であり、浅草オペラ全盛期にペラ・ゴロを熱狂させたエノケンの「ベアトリ姐ちゃん」、田谷力三の「恋はやさし野辺の花よ」を代表作とする。上田敏や蒲原有明などの系列に属する象徴詩、ブラウニングやロセッティなどの英詩の翻訳でも知られる。文部省教科書編纂委員のほか、常盤松高等女学校や早稲田実業で校長を歴任した。

 

この経歴であればこそ、巻頭に森林太郎(鴎外)、服部宇之吉、佐佐木信綱の3人が「序」を寄せていることも肯けるところだ。

 

森の「序」には、「西洋行脚の書物はだいぶ多いやうだが、支那行脚のそれは一向に現れない。何故だらう。支那には驚異がないのか、興味といふものに乏しいのか。いやたしかに支那は秘密の多い、奇談の多い、怪しい面白い國だ。そこを旅した人も多からうと思ふが、紀行文の出ないところを見ると、筆の人がたんと見物に行かなかつたであらう」。ところが「突然小林君が來て支那印象記といふものを發行する」という。はたして小林は「漢學者がするやうに、懷古の涙ばかり流して支那を見はしなかつた」。「そこにこの一巻の意義があるとおもふのである」と記されている。

 

小林は、これまでの紀行文の書き手とは些か毛色が違い「懷古の涙ばかり流して」いるわけではない。加えて明治44年といえば辛亥革命が起り清朝が崩壊し、長かった中華封建帝国に終止符が打たれた1911年に当る。

 

「『人の眠てゐる國』がある。/何億といふ人間が、何年も昔から高鼾をかいて眠てゐる國がある。その國には、何處まで探ぐつて行つても源泉が分らず、對岸さへもよく見へない大きな河がある。又その國には晴れた日にいくら望遠鏡で見ても山はおろか家も樹も見えない廣い野原がある」。世界の3大偉人の1人である孔子を生み、万里の長城を築き、数多の英雄・詩人を輩出したにもかかわらず、「今の人は何とも思はないで、うまい老酒や阿片の香にひたつて悠々と眠てゐる」と現状を記した後、「その國の傍にあまり大きくない島がある」と続ける。

「島の若者は、『人の眠てゐる國』から育てられたことを忘れ、近頃は遠い海を越した先の、『人の醒めてゐる國』を拝んで、模倣て、ひとりでえらくなつたやうに鼻をうごめかして居た」。ある日、「島の若者の一人がこの『人の眠てゐる國』へ旅をした。思ふには、『きつとガリヴㇵァが小人國へ行つたやうだらう』と」。

 

だが豈はからんや、予想は大いに違っていた。「自分の島では近頃この『人の眠てゐる國』の聖人の書物がマツチのやうな小さな本になつて」いて、電車のなかでも読まれるようになっているが、「その本元の國では根本からもつと新しい思想が人間の頭に植えつけられてゐた」。一方、「島の人がしきりに苦しんでゐる東西文化の融和といふやうな事も、ぢきにやつてのけさうに見えてゐた」のである。

 

かくて「島の若者の一人はどつちが大人だか、小人だかわからないやうに思ひながら歸つて來た」。だが、この旅行で若者は心に「大層得るところがあつた」。それというのも、「『人の眠てゐる國』の覺醒した暁を考へて、しばらく夜着をかけていたはり、やがて起き上つたら手をとつていつしよに歩かななればならないと思つた」からだ。

 

「自序」の最後は「一九一一年晩秋南清革命軍の戰報を耳にしつつ」と結ばれる。

 

「島の若者の一人」は『人の眠てゐる國』の新しい時代を、どう捉えんとしたのか。《QED》