【知道中国 1644回】                       一七・十・仲八

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山10)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

さらにドイツの策動は続く。「獨逸領事は、また西蔵にも興味を持ち、蔵文學堂敎師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習つてゐる」。そればかりか語学教師として破格の授業料を払っている。それというのも彼は役人であり、四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っている。「故に西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり、第二に獨逸領事の知るところとなるといふ」。ドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川(ということは清国)の交渉の詳細を知ることができるわけだ。

 

しかも、である。「該領事は獨逸陸軍中尉で、今度歸國に際して西蔵を經て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」から、米内山ならずとも「いかにも獨逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じ」るだろう。

 

この手段を択ばないドイツ狡猾さが1世紀余が過ぎた現在でも生きているなら、メルケル政権の対中政策も納得できるはず。ヒトラー時代のドイツにおいても、?介石政権と日独伊三国防共協定下の日本とを両天秤に掛けていたということだろう。自国本位、超自己チューという基本姿勢は、やはり中国とも共通する。たしかに類は友を招ぶ。その点、同文同種やら一衣帯水などという4字句に眩惑され続けても懲りそうにない日本とは対照的だ。

 

以後、成都を離れ長江沿いの名勝古跡を訪ねながら上海に戻ることになるが、「支那では無錢旅行は絶對に出來ない。金がなければ米一粒、燐寸一本でも得られない。あかの他人に對する同情など金の草履穿いて探し歩いたつて見つからない」。そこで「第一に自分の足に頼るのと、それから第二に、兎に角金を持たなければ」と記している。

 

この米内山の実体験から生まれた“警句”を、現在の日本人は、やはり真っ正面から受け止めるべきだろう。やはり第一は「自分の足」で、第二は「兎に角金」。

 

後の日中戦争の時代、米内山は若き日の雲南・四川の旅の途中で足を延ばして登った峨眉山を思い出しながら、次のように綴っている。いささか“感傷”に過ぎるようにも思えるが、現在でも熟読玩味・沈思黙考すべきだと思える。

 

「?介石が宋美齡夫人を伴つて峨眉に入り、風月を友とするやうな悠々自適振りを示しつゝ抗爭に從事する。ちよつと見ると非常時意識を缺くやうでもあるが、しかし、そこに却て永久抗爭の侮り難い底力が窺はれる。一服しながら緩つくり行かう。我々の手でいかなければ子供の代もあり孫の代もある。支那民族かう考へる。張り切つた絃は切れることもあらうが柳の枝に雪折れはなし。支那民族のこの悠々自適振りは、決つして侮られないものである。それは西洋にもないところのもので、いはゞ東洋の味であり、四千年少しの衰へも見せず繁榮して來た支那民族の民族的粘り強さでもあらう」。

 

「四千年少しの衰へも見せず繁榮して來た」かどうかは議論の余地が大ありだが、「支那民族の民族的粘り強さ」には注目しておくべきだ。1958年から始まり4000万人ほどの餓死者を出したといわれる大躍進にも、1966年に始まり10年もの間社会全体を大混乱に陥らせ数限りない悲劇や惨劇を生んだ文化大革命にもへこたれず、1978年末に対外開放に踏み切るや“絶対無謬の至上の神”とまで崇め奉っていたはずの毛沢東なんぞサッサとコロッと忘れ去り、一気にカネ儲けに邁進する。見事なまでに無反省な精神的離れ業であることか。

 

まさに変幻自在で融通無碍、一貫不惑で面従腹背、右顧左眄で超自己チューとしか形容しようのない彼ら民族には、やはり「張り切つた絃」では処し難い。かといって我が民族は「柳の枝」の生き方を潔しとはしないはず。であればこそ、今後も「張り切つた絃」で「柳の枝」に対し続ける覚悟を持つべきだ。一発必中の妙手はない・・・のだから。《QED》