【知道中国 1643回】                       一七・十・仲六

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山9)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

王家経営の学校には「日本人敎習も三名ゐたが前年二月に歸國したとのこと」ではあるが、「先生には日本留學出身の人が多」いうえに、東京朝日新聞の購読である。さらに「日本の蔵前の高等工業學校機械科出身で學校卒業後、越後の石油會社で三ケ月實習したという王君から、流暢な日本語で越後の石油井と自流井の鹽井の比較の話などを聞」き、「支那人から日本の石油の話を聞くので何だか變な氣がした」。さらにさらに「同じく日本留學出身の楊君のところで一同晝餐の御馳走になつ」たうえに「四川名産の大?酒」の席で「王君は東京の流行歌などを器用に歌つてゐた」という。

 

あの時代、四川の片田舎の街に、かくも日本が浸透していたとは驚きというしかない。おそらく「王君」や「楊君」以外にも多くの日本留学生が各地にいたはずだ。であればこそ、我が大陸政策の一角に彼らをソフト・パワーとして組み込もうとは考えなかったのか。

 

その後、四川省各地の名勝古跡を見物して到着した省都の成都では、多くの日本人が働いていた。製革廠で働く小西氏は、「明治四十年、四川總督の委嘱を受けて西蔵境の巴塘まで行つて來たという」。「この年の四月以來成都を中心として四川各地を跋渉し」チベット近くまで足を延ばした「福田麥德畫伯」。「二十日ばかり前に成都を出發して巴塘に向つた」という「矢島某」。陸軍医学堂教習の「兒玉氏」、鉄道学堂の「敎習百瀬氏」、工業学堂教習の「市川氏」、府中学堂の「鈴木氏」と「山本敎習」、高等学堂の「敎習三木氏」に「諸敎習」、蔵文学堂の「敎習相田氏」、さらに成都の旧市街の「通省師範學堂、工業學堂、法政學堂、兩級師範學堂、農業學堂等」には「何れも日本人敎習がゐた」という。

 

こういった状況を考えれば、この種の一族を利用して「ソフト・パワー」を展開することを当時の我が政府は考えなかったのだろうか。考えなかったとしたら、じつにモッタイナイ話だ。

 

ところで成都滞在中、「製革廠技師小西氏ほか居留民諸氏」から「いろいろと興味ある話を聞」き、「その二つ三つ」を記している。確かに興味深い話であり、同時に山川早水の『巴蜀』(成文堂 明治42年)に共通する点もあり、可能なら山川を扱った1611回から1625回を参照してもらえると有難い。

 

先ず「成都に於ける外國製品で最も優勢なものは獨逸品であ」り、それは「頗る支那人の嗜好に適し、堅牢でさうして價が安い」からだ。一例としてドイツ人は四川特産の竹製諸器物に着目し、「これと同じ形のものをエナメル塗りの金屬を以て造つて支那人の眼の先きへ突き出した。竹製のものに比べて堅牢であり輕便でありしかもよく濕氣に堪へる。さうして價は安い。支那人がこれに手を出さない譯はないのである」とするが、この点は山川の記すところと同じだ。とするなら、ドイツ製品は当時の成都で他国製品を圧倒していたということだろう。

 

じつは「商品を軍艦で運んで來る」ドイツは、「輸入税を一文も拂はない。だから價を安くして賣ることが出來る」というのだ。これに対し「佛國や米國は宣敎師の荷物として商品を持つて來る。たゞ英國だけは堂々と正規の手續きを取り税金を拂つて持つて來る」。

 

製品に劣らず成都で活躍しているのはドイツ領事だ。「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を盡して利權の獲得に努めてゐる。機器局の技師は獨逸人で獨占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。じつはドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るだけではなく、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗應したりする」。「現在の製革廠技師小西氏を逐つてこれに代つて獨逸人技師を入れようとする下心であることは明かに分つてゐる」。ドイツは小狡い。《QED》