【知道中国 976】                         一三・十・初八

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の7)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

洗濯物を済ませた火野は「夜の街に出た」。ホテルの前に並んでいる「露店の本屋をあさっていると、すぐ背後で、なにかいるのですか、と声をかけるものがあった。工作員の王君だった。私はなぜかひやっとした」。「監視されていて後をつけられたのではないかという疑念がひらめいたから」である。やはり「工作員の王君」に監視されていたようだ。

ホテルに戻ると広州平和委員会の招待による晩餐会となる。「豪華な広東料理が出た。よろず質素になったというが、料理の味は落ちていない」。

この種の晩餐会の常で先ずは双方の挨拶となる。見事な日本語を話す通訳嬢が「招待者の意をうけてこのなかで前に中国においでになった方は? ときく」。そこで、火野は一瞬ためらう。「嘘はいいたくないが、答えずにすむなら答えたくなかった」。「すると、常久さんが、火野さんが中国をよく知っていますよ、と横からいった」。またしても常久だ。そこで火野は仕方なく16年前に広東で1年ほど暮らしたと答える。

すると通訳嬢は当時と現在の違いは、と火野に問いかける。火野はまだよくわからないが「広東には、昔、ドロボウ市場――賊街市というのがたくさんありましたが、あれはどうなりましたか」と。

彼女は「おかしくてたまらないようにコロコロ笑いだし、『そんなものはもう解放後の中国には、どこの街に行ってもありませんよ。新中国からは悪い考えのものはみんななくなったのです。ドロボウ、売春、乞食、金貸し、ボス、贅沢――封建思想とたたかうことが新中国の使命です』」と、先ずは“想定問答集”の答が返ってくる。

そこで「悪い考えという表現は私には面白かった。悪い考えの親玉というのは搾取で、資本家地主を先登とする資本主義、帝国主義を駆逐することが革命の最大目的であったというわけであろう。ドロボウや売春や乞食があったのは食えないためだったのだから、労働者農民が解放され、一般人民の生活が向上した現在では、その種の悪は自然の順序としてなくなったのだという。新中国では全部の人間が働いていて失業者がいない」とのこと。

だが、それがどうも、そうではないらしかった。

火野は晩餐会で飲んだ「ビールですこし酔ったので、頭を冷やすために夜の川べりに出た」。「竹下さん(戸畑商工会議所会頭)、村井さん(地質学者、北大教授)、深田女史などがいっしょだった」。問題は、この後だ。

「暗い川っぷちにたくさん淫売婦が出ていた。どの女にもやり手婆がくっついていて、客を引くありさまは昔とすこしも変らなかった。相当の人数である。岸には蛋民船がつながれているので、昔ながらの花艇がのこっているのだろうかと疑った」。そうこうしているうちに、「若い女をつれたやり手婆が私の袖をひいたので、ならんで歩いている深田女史を太太(女房)といって指さしてみせたら、苦笑して遠ざかって行った」とか。因みに蛋民とは荷役作業などに従事しながら一生を船(この船=家が蛋民船)で送る一種の被差別民で、現在でも広東で見られる。香港では陸上に職を求めるようになり、見かけなくなった。

かくて火野は「パンパンも地味な服装をしていて、派手な中国服の香港淫売とはまるでちがっていた。この種の女を絶滅することは容易ではあるまい」と想像するのだが、「あまり遠出はできないので、ふたたび群がるパンパンの中を縫って愛群ホテルにかえった」のだが、そこに非常呼集がかかる。勝手に外を出歩くな。統制ある行動を心掛けよなどと、「橋本事務局長はなかなかやかましい」。以後の日程が知らされた後、「今夜の宴席で、新中国では禁句になっている言葉を耳にしたので、今後はしかと心して下さるよう」との注意だ。

パンパンにやり手婆・・・建国から6年が過ぎた新中国の広州の現実である。《QED》