【知道中国 1642回】                       一七・十・仲四

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山8)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

中国人が「後から後からと集まつて來る。歸れといつたつて歸りはしない。ありあはせの棍棒を持つて追ひまくると蜘蛛の子を散らすごとく逃げたがすぐまたやつて來た。睨みつけると、また逃げるがすぐまたやつて來る。根氣負けしてこつちが逃げるか黙るつてゐるよりしかたがなかつた」とは、なにやら対外開放以後、海外に「走出去(飛び出)」す中国人の生態を言い現しているようだ。

 

生活空間の隙間さえあれば「後から後からと集まつて來」て居座ったうえで、その地域で行われ続けて来た生活文化を全く無視し、超自己チューな振る舞いを押し通すだけではなく、「歸れといつたつて歸りはしない」。米内山の経験では「ありあはせの棍棒を持つて追ひまくると蜘蛛の子を散らすごとく逃げた」そうだが、昨今の中国人は逃げはしない。ゴミを分別せよ。ゴミ出しの日を守れなどと地域住民としての最低限の約束すら守らないばかりか、ゴミを撒き散らして平気の平左。「根氣負けしてこつちが逃げるか黙るつてゐる」のをいいことに、彼らは仲間を呼び込み増殖に継ぐ増殖、果てしない増殖である。かくて「根氣負けしてこつちが逃げ」出すしかなくなるや、そのうちに一帯は中国人の街と化し、新たなチャイナタウンとなってしまう。

 

なにやら日本各地、いや世界各地で起こっている現象そのものではないか。これが「走出去」の実態だろう。こういった彼らの行動には『論語』もヘチマもあるわけがない。認められるのは生存のための剥き出しの知恵――いや正確には“狡知”というべきだ――でしかない。その意味でいうなら、「即ち支那國は滅びても支那人は滅びぬ」(佐藤善治郎『南清紀行』良明堂書店 明治44年)ということだ。もうそろそろ世界は、気がつくべきだろう。「根氣負けしてこつちが逃げるか黙」ってからでは遅いのである。

 

やがて「坂を登り盡すと」、そこは四川省。「來し方を望めば雲南の山々は遠く雲際に連なつてゐた」。昆明からの26日間、「あの雲南の山々を踏破して來たのだ。顧みて無限の感に堪へなかつた」。

 

四川省に入ると、沿道の様相は一変する。「山に樹木多く、土地は、平地はいふまでもなく、さらに谷間から山の坡に至るまでよく耕されてゐた。水田もあり畑もあり、稲は十分に實つて穗を垂れてゐた。(中略)田や畑の間には人家多く小供が遊んだり鶏が鳴いたりしてゐた。いかにも雲南の山を出たといふ感じであつた」。

 

以後、四川各地を歩くことになるが、「人口約二十萬、四川省屈指の大都會」で塩の産地として知られる自流井で薬屋を営んでいる「長野縣人春日護」に偶然に出会った。「その夜、春日氏に招かれて鋤焼きの御馳走になつた」。彼は「藥屋を開いてゐるが、この土地は富豪が多く、さうして日本人に非常に好意を持つてゐるので、その人々を對手として何か大きい商賣をしようと考へてゐるとのことであつた」。じつは「自流井には日本人留學生出身のものが多く現に三十人ばかり知つてゐるとのことであつた。外國人としては福音堂に英國人四名、天主堂に佛蘭西人一名ゐるといつてゐた」。自流井には塩を製造するために地中から塩水を組みだす塩井の外、ガスを掘り出す瓦斯井もあった。自流井が「四川の富の中心」である由縁は、この塩とガスにあったのだ。

 

春日の案内で「自流井の富豪の一人である王家を訪問」し、王家経営の学校や塩井などを見学する。四川屈指の富豪である一族は「頗る日本好きで家族の中東京に留學してゐる者が五六人、その使用人を加へて十數名東京で一家を構えてゐるとのこと」。王家は「初等小學堂から高等學小學堂、さらに女學堂、中學堂」まで経営し、教育機材は日本製で「日本の制度に倣」うだけでなく、「東京朝日新聞が備へつけられてゐた」・・・驚きだ。《QED》