【知道中国 1641回】                       一七・十・仲二

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山7)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

雲南四川大路途中の要衝である東川では、小学校視察のために日本を訪れたことのある湖南出身の劉盛堂が創設・経営する楚黔両等小学堂を視察する。「すべて日本の制度に倣つて敎育をしてゐるとのことであつた」。小学堂には「珍しくも風呂場があ」り、「身體が弱く怠惰で困る」うえに不衛生極まりない生徒を毎週土曜日には入浴させているとか。入浴も日本で学んだのであろう。劉から送られた聯には「哈爾濱前伊藤血 金州城外乃木詩」と墨痕鮮やかに記されていたというから、先ずは日本贔屓だったと思える。

 

ところで楚は広く言えば湖南・湖北の両省で、狭くは湖北省を、黔は貴州省を指す。ということは、この楚黔両等小学堂は長江中流域の湖北・湖南の両省と貴州からの移住者の子弟が学ぶ小学校と考えて強ち間違いはなさそうだ。この小学校の校名からも、漢族による南方への移動が傍証できるだろう。こんなところにも“熱帯への進軍”が見て取れるはずだ。

 

東川にはイギリスの教会があり、主のイーヴワン氏は「東川に來てすでに八年、土語に通じてゐた」。夫人は夫人で周辺少数民族、わけても「苗族のことをいろいろ調べてゐた」。フランスの勢力圏ともいえる東川であるにもかかわらず、イーヴワン氏は単に布教活動に専心しているわけでなさそうであり、夫人は少数民族調査、つまり侵略のスムースな展開を進めるための学問である文化人類学の学徒――ということは、この夫婦の役割は判ろうというものだ。

 

さらに道を急ぐ。

 

「途中で佛蘭西人の宣敎師らしい鬚の生えた外國人の馬で來るのに行き會つた。私が昭通で二回も訪問したが不在で會へなかつた天主堂の宣敎師だらうと思つた」。じつは、昭通で「天主堂を訪問したが、佛蘭西人の宣敎師は旅行中とのことで不在だつた。福音堂に英國人の宣敎師を尋ねたがまた不在、その夫人の紹介に依つてさらに東門外に同じく英國人宣敎師チャーレス・エヒックス氏を訪うた」。彼は「支那にゐること已に十三年、支那文及支那語に通じてゐるとのことであつた」。彼は、この地方には珍しい豪壮な館に護衛兵に守られて住んでいたが、「この附近で英國人宣敎師の暴民に殺された事件があつた」からだ。

 

やはりイギリスとフランスの両国は、雲南から北上し四川へ。攻略の先兵として宣教師を送り込んでいたようだ。それにしても「支那にゐること已に十三年、支那文及支那語に通じてゐる」ような宣教師は、米内山が歩いた雲南・四川だけに認められていたわけではあるまい。中国各地で諜報活動、いま風にいうならインテリジェンス活動を地道に続けていたと考えるべきだろう。彼らが、青年客気の我が先人の如く「支那にゃ四億の民が待つ」などと大言壮語していたとは、とても思えない。

 

「四方を眺むれば、たゞ、山また山、その山の峯が玉を並べた如く四方に連なつてゐる。さうして幾百千となく山の峯を並べた地平線が、雲と抱合して一線になつてゐた。山の上から山を見ると、ちやうど大海の波濤を四方に眺めるやうでうつくしかつた」。

 

そんな山中で「四川から雲南に行く行く途中」の「日本人の勝田萬吉氏に出遭つた」というが、さて彼は、いったいどんな目的で雲南に向ったのか。

 

四川を前にした豆沙関という街でのこと。米内山が「宿屋に入つたら街の人々はどやどやと後をつけて室の入口まで來て見てゐた。後から後からと集まつて來る。歸れといつたつて歸りはしない。ありあはせの棍棒を持つて追ひまくると蜘蛛の子を散らすごとく逃げたがすぐまたやつて來た。睨みつけると、また逃げるがすぐまたやつて來る。根氣負けしてこつちが逃げるか黙つてゐるよりしかたがなかつた」。物見高いは何とやら・・・。《QED》