【知道中国 1640回】                       一七・十・十

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山6)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

おそらく若き日の板垣は、雲南省政府高官の邸内には桜が植えられた桜を愛で、日本から持ち込まれたモーター・ボート遊びに打ち興じたことだろう。

 

さて、昆明のその後だが、支那事変から日中全面戦争へと戦線が拡大するに従って「かつての親日都市昆明」は「抗日拠点」へと性格と役割を大変身させた。連合軍による援蒋ルートの拠点となり、1949年の共産党政権成立を機に毛沢東が対外閉鎖に踏み切るや、昆明は中国西南辺境――広大なゾミアの中に消えてしまい、加藤も山縣も忘れ去られ、日本も昆明に対する関心を払うことはなかった。

 

だが1970年代末に鄧小平が毛沢東政治の大転換を図り、改革・開放の大号令を発し、90年代初頭に李鵬首相(当時)が「西南各省は南に連なる東南アジアに向かって大胆に進め。自らの智慧と力で貧困を打ち破るべし」と号令を掛けて以降、四川、貴州、広西などの西南各省を軸に東南アジアとの接点を求めて動き出した。以来30年ほどの間、漢族の“熱帯への進軍”は滔々と途切れることなく続き、いまやゾミアは中国一色。

 

そこで考える。帝国陸軍が「支那通」として育て上げたはずの板垣は、昆明のみならず雲南、さらには雲南を中心とする中国西南を地政学的にどのように捉え、戦略的価値をどの辺りに置いていたのか。詮無いこととはいえ、彼らに教えを乞いたかったものだ。それを解明することで、おそらく「支那通」の限界が浮かび上がってくるだろう。それはまた往時の、帝国陸軍を中心にした我が国の大陸政策の限界を知ることに?がるはずだ。

 

米内山に戻るが、彼が昆明で訪ねた在留邦人は、四川省成都で陸軍製革廠技師を経て「雲南に招聘せられ、雲南陸軍製革廠を創設した」だけでなく「雲南省政府顧問というような」立場に在る石塚氏、その下で働く4人の邦人職員、農業学堂で働く「邦人敎習諸氏」だった。招かれて見学した講武堂の運動会は「全く日本式に装飾せられてゐ」て、「運動の種類進行順序などは全く日本でやる通りあつた。(中略)假装行列の中に日本の書生ゴロがゐた。神田あたりで見る書生ゴロそつくりであつた」。

 

講武堂は昨年(明治32=1999年)で、敎官二十餘名すべて日本の陸軍士官學校出出身の青年士官だといつてゐあ。私共を大いに歡迎し、運動會閉會後、一行を晩餐に招待した。日本式の軍服を着た青年士官と日本語で話してゐると、遠い雲南へ來ているやうな氣持がしなかった」というから、やはり「雲南の日本色」は大いに濃かったということだろう。

 

いよいよ昆明出発である。「山やた山の雲南」であり、昆明からは「何處へ行くにも山を越えなければならない」。「しかも並大抵の山ではなく海抜一萬尺の山々だ。ほんたうに千山萬嶽の路だ」。昆明からほぼ真っすぐ北上する「所謂雲南四川大路は、一萬尺の山々を越えるもので、車は勿論、ところに依つては馬も通ぜず、文字通り山嶽を登攀して行く路だ」。

 

出発の朝、安田商店では「一路平安を祈つて赤飯を祝つてくれた」。遠く郊外まで送ってくれた在留邦人に向って「日の丸の旗を振りながら互いに影の見えなくなるまで名殘りを惜しんだ」のである。やがて「こゝに至つて平道全く盡きていよいよ山路に入る。一歩は一歩より高く、行手を見ると路は次第に高く遥かに雲に入つてゐた。下は柳樹河の溪谷深く、その岩を踏み崖を攀ぢて行く。路端に芙蓉の花が咲いてゐた」。時に「朝霧を分けつゝ高原の路を行く」。

 

ある集落で「村の名前を聞かうと思つて、その中の一番大きい家に入つて行」くと、誰もが逃げる。なかの老婆が「命は助けて呉れといはぬばかり」に「震へながら村の名を答へた」。そこで米内山は「私が恐ろしいといふよりも、始終さういう恐ろしい眼にあつてゐるからであらう」と考えた。「恐ろしい眼」とは匪賊の襲来か、役人の苛斂誅求か。《QED》