【知道中国 1639回】                       一七・十・初八

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山5)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

昆明に近づく汽車の中で「日本語のよく分る學生服を着た支那人」に出合う。数日前に言葉を交わした岩倉鉄道学校生徒の兄で「東京高等師範學校の學生」だという。

 

昆明に着いて米内山が世話になったのは「南門外の保田商店」である。保田商店が何を商っていたのかは不明だが、当時の昆明は日本と密な関係を持っていた。昆明には「日本人の敎習が多く、農業學堂などは殆ど日本人の敎習で持つてゐるといふ有様でありまた、日本の士官學校に相當する雲南講武堂なども、日本人の敎習こそゐなかつたけれども、校長初め敎官は殆ど全部といつていゝほど、日本の陸軍士官學校出身の人々であつて、私共を大いに歡迎した。私は雲南の日本色の濃いのに驚いたのであつた」。かくて「雲南は極めて好い印象を私に與へた」のである。

 

ここで米内山の旅から少し離れ、日本と雲南の間の関係が最も緊密だった頃を振り返っておきたい。

 

米内山が言及する雲南講武堂は、正式には雲南陸軍講武学堂と呼ばれ、20世紀初頭に設立されている。共産党政権成立の元勲たる朱徳や葉剣英も学ぶなど、清朝打倒からの辛亥革命から共産党政権成立までの激動の20世紀前半の歩みを語るうえで欠くことのできない人物を輩出している。

 

じつは清末の清朝打倒を掲げた革命運動の中心の1つが雲南であり、その原動力こそが日本の陸軍士官学校に留学した若き将校たちだった。彼らが徹底した軍人教育を施された日本の士官学校こそ彼らの母校であり、であればこそ彼らは母校に倣って昆明の地に雲南陸軍講武学堂を創立したのである。古来、「好鉄不当釘 好人不当兵(いい鉄は釘にならない、いい人は兵にならない)」と形容されるように匪賊と五十歩百歩であり社会のクズ以下の存在でしかなかった兵士を、日本式に徹底して教育し立派な戦士に鍛造したのである。

 

ここに加藤信夫が馳せ参じた。東京で革命工作を続ける孫文などに共感したことから陸大を退学させられたうえに剥官処分を受けた加藤は、体育学校を創設し主任として講武学堂の予備教育に力を尽くす。ある本に「雲南における(清朝打倒)革命の成功は、氏の功績に負ふところ少なくなかった」と記されるほどだ。

 

辛亥革命によって清朝が倒れた後にアジアで最初の立憲共和政体の国として誕生したのが中華民国だが、この時代、雲南を基盤に中国政治に影響力を発揮した人物の1人が唐継尭である。彼もまた日本の士官学校に学んだ親日家であり、山縣初男以下数人の日本人を顧問として招請し、省の財政・軍事などを委ねた。

 

大正初年頃から末年までのことだが、昆明には100人を超える日本人が在住し、日本から大工や左官を呼び日本流の座敷を作り、雲南省政府高官の邸内には桜が植えられ、村上洋行、安田洋行の両商社のもあった。当時、昆明の湖には日本から持ち込まれたモーター・ボートが浮び、さながら昆明の日本人にとっての黄金時代だった、とか。

 

ところで極東軍事裁判で絞首刑の判決を受け、昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで処刑された板垣征四郎(明治18=1885年生まれ)だが、その軍歴を追ってみると、陸大卒業後の大正6(1917年)8月6日に参謀本部附仰附の辞令を受け昆明に向っている。2年ほどの滞在の後、漢口に転じた。関東軍参謀長、第5師団長、陸軍大臣、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官、第17方面軍司令官、第7方面軍司令官などの要職を歴任した彼は、在中華民国公使館附武官補佐官、奉天特務機関長なども経験した。極東裁判では板垣と並んで帝国陸軍を代表する「支那通」で知られた土肥原賢二、松井石根も絞首刑となっているが、偶然の一致というより復仇――“狙い撃ち”であり“見せしめ”ということだろう。《QED》