【知道中国 1637回】                       一七・十・初四

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山3)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

ところで、これから米内山が向かおうとする雲南・四川・貴州は、現在では「ゾミア」と呼ばれる地域に含まれる。じつは「『ゾミア』とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯を指す新名称であ」り、「およそ標高三〇〇メートル以上にあるこの地域全体は、面積にして二五〇万平方キロメートルにおよぶ。約一億の少数民族の人々が住み、言語的にも民族的にも目もくらむほど多様である」。

 

以上は、J・C・スコット(イエール大学政治学部・人類学部教授)が著した『ゾミア  脱国家の世界史』(みすず書房 2013年)からの引用だが、もう少し続けてておく。

 

「東南アジア大陸部の山塊(マシフ)とも呼ばれてきたこの地域は、いかなる国家の中心になることもなく、九つの国家の辺境に位置し、東南アジア、東アジア、南アジアといった通例の地域区分にも当てはまらない。とくに興味深いのはこの地域の生態学的多様性であり、その多様性と国家形成との相互関係である」。

 

かく『ゾミア  脱国家の世界史』から引用したのは外でもない。「およそ標高三〇〇メートル以上にあ」り、「面積にして二五〇万平方キロメートルにおよ」び、「通例の地域区分にも当てはまら」ず、また「生態学的多様性」に富んだ地域が、1億余の人口を擁しながらも、歴史的には「いかなる国家の中心になることもなく」、現在に至っていることを押さえておきたいからである。

 

漢族の歴史を振り返ってみると、ゾミアに向って彼らは南下を続けて来た。先住する少数民族を時に漢化し、時に駆逐することで、自らの生活空間を拡大させてきたわけだ。これが漢族による“熱帯への進軍”である。ところが19世紀後半になり清国の弱体化が一層進むと、今度はイギリスとフランスの両国がゾミア域内に築いた自らの植民地――イギリスはビルマ、フランスはヴェトナム――を拠点に北上し、ゾミアの北部に位置する雲南、四川、貴州、広西など中国西南部の制圧を試みるようになった。米内山が目にしたのは、ちょうど、この頃の雲南・四川であった。これを言い換えるなら、米内山は清国利権を巡って緊張を増す国際政治の最前線を歩いたことになる。

 

ところで歴史的に一貫して続けられてきた“熱帯への進軍”は、1949年10月の共産党政権成立によって停止される。毛沢東が対外閉鎖策を断行したからだ。その後、毛沢東はゾミアに在るビルマ、タイ、カンボジアなどで自らの息のかかった共産党による民族解放闘争を展開する。これらの国々で武装闘争による革命を成就させようとした。最終的には自らの息のかかった共産党政権を打ち立て、最終的には“属国化・衛星国化”を狙ったのだろう。いわば毛沢東式の“熱帯への進軍”である。だが、この試みは大失敗に終わった。

 

次いで登場した鄧小平が1978年末に改革・開放政策を断行したことによって、1949年10月の建国を機に中断されていた本来の“熱帯への進軍”が息を吹き返すことになる。90年代初頭、当時の共産党政権は雲南省の国境関門を南に向って開き、社会経済的に立ち遅れた西南地域(ゾミアのうちの中国部分)の開発を目指した。雲南省の省都・昆明を起点にゾミア全域を鉄路・陸路・空路のネットワークで結び、中国主導による新たな経済圏を築きあげることを考えたのである。まさにゾミアを中国のために全面利用しようという大構想――といえば聞こえはいいが、しょせんは身勝手極まりない妄動――である。

 

たしかに彼ら民族特有の大風呂敷ともいえるが、問題は、それが実現に向けて歩一歩と進んでいることだ。もちろん紆余曲折をみせながらも、遅々とした歩み・・・だが。《QED》