【知道中国 1636回】                       一七・十・初二

――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山2)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

はたして当時の日本は、「相手を征服するのに相手を真に理解し尽くすという武器より強い武器」を持つための努力をしていたのか。いまから振り返って見ると、甚だ心許ないばかりだ。「暴支膺懲」「鬼畜米英」の掛け声にしても、当時のメディアが煽りこそすれ、その実態は小林秀雄の説く「鈍感なリアリズム」に過ぎないのではなかったか。

 

さて、この辺で小林を切り上げて、本題に。

 

米内山の旅は、中越国境の河口から始まった。米内山は河口を「雲南省の南端、南溪河を隔てゝ佛領の牢該と相對す。河口及び牢該の街はともに南溪河に臨んでゐる。その二つの街をつらねる南溪河の橋の眞中が、支那と佛領東京の國境である」と記す。位置関係をみると、雲南省を南下した南溪河は中国側の河口と仏領インドシナ側のラオカイ(牢該)の間を縫った後、紅河に合流し、ハノイ(河内)を経てハイフォン(海防)でトンキン湾に注ぐ。現在でも中越両国は、河口と牢該の間に引かれている。

 

これから米内山を昆明まで運ぶことになる「?越鐵道は河口からその南溪河の溪谷に沿うて上つて行く」。「沿岸の溪谷には、巖頭絶壁聳り立ち、奇觀を呈してゐる」。その「?越鐵道は佛國の建設經營する、佛領東京より支那の雲南省城に至る」。この路線の「敷設は元と佛國政府の計劃で、その佛領線は政府の手で設計せられたものである」。フランスが「支那から雲南線敷設の權利を得て、東京線を雲南省城まで延長することを計劃し、一千九百一年、?越鐵道會社を組織して雲南鐵道を敷設せしめ、同時に東京線をもこれに讓渡經營せしむることゝした」。この鉄道に米内山が乗ったのが明治43(1910)年だから、雲南鉄道敷設から10年ほど後ということになる。

 

『雲南四川踏査記』から、この鉄道についての解説をもう少し続けたい。

 

「雲南省は何處を見ても山ばかりだ。その雲南の山嶽を見ごとに征服して鐵道は敷設されたのである。この佛國の?越鐵道雲南線は、雲南への初めての鐵道だ。英国は緬甸から雲南省城への鐵道を計劃してゐたけれども、まだ實行されないうちに佛國の鐵道は雲南へ入つて行つたのである」。

 

19世紀も終わりに近づく頃、イギリスとフランスの新たな中国侵入ルートとして共に雲南省に着目し、イギリスは英領ビルマを拠点に西から、フランスは仏領インドシナの一角である東京(ヴェトナム北部)を足場に東から、共に昆明入りを目指す。共に鉄道敷設を計画したものの、?越鐵道雲南線で先んじたフランスに対し、イギリスは遂に敷設には至らなかった。

 

フランスが実現した雲南線は「海拔二百九十五呎の河口から、雲南まで四百六十五粁の間に、海拔六千四百呎に上るといふ山また山を溪谷を沿ふて登つて行く極めて難工事であつた。この鐵道は狹軌で、その枕木及び電柱等はすべて鐵材を用ひてゐる。一度この鐵道を通つて見ると、それがいかに難工事であつたかといふことが分る。それと同時に、よくもかくの如き鹿も通らぬやうな山嶽を、山を登り巖を穿ちて鐵道を通したものと驚歎せざるうを得ない」と。

 

これまで雲南省体験は2回ある。最初はバンコクから空路での北上で、眼下に広がるのは山また山。2回目は車で雲南省西部を走ったが、山並みを縫うように進む道路の先の先、またその先まで見渡す限り山また山だった。上空から眺めても、地上に立って遠望しても、たしかに「雲南省は何處を見ても山ばかりだ」。かく過酷な自然環境のなか、フランスは「鹿も通らぬやうな山嶽を、山を登り巖を穿ちて鐵道を通した」。そこには中国攻略に賭けるフランスの執念があったはずだ。イギリス如きに負けてなるものか、である。《QED》