【知道中国 977】                         一三・十・十

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の8)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

新中国では、いったい何が禁句なのか。事務局長は、「満州は東北、大東亜戦争は太平洋戦争、南支、北支、中支は、華南、華北、華中特に支那という言葉は絶対に使わず中国と呼ぶこと、日中友好、日中貿易等はすべて中日友好、中日貿易のこと。今日たれかが工作員をつかまえて、オイといったらしいがそれはやめてもらいた」と、固く戒める。

すると「・・・うっかりものもいえんなあと誰かが笑った」。ということは、当時は、まだまともな神経の持ち主がいたということになる。

それしても、いったい、いつから、なにゆえに日本人は共産党治下の中国に関する意見に過剰なまでの自己規制という箍を填めてしまったのか。アメリカ追随者を「アメリカのポチ(略称「アメ・ポチ」)と呼ぶ例に倣うなら、戦後の日本には「北京のタマ」(「ペキ・タマ」?)が溢れた。アメ・ポチにペキ・タマ――なんとも情けない限りだ。その情けないぺキ・タマが一行の中にいた。その代表格が、あの労働運動家の常久だった。

到着翌日の朝食の席でのこと。火野は「なにげなしに、昨夜、珠江べりでパンパンを見たと話すと、間髪を入れぬ早さで、そんなことは絶対にないと二、三の声が異口同音にとん来た。常久さんの声がいちばんはげしかった。私の反動性を見やぶったようないいかたである」。常久らは、“反動の火野”がデタラメな反中発言をしているとでもいいたいのだろう。そこで火野は「苦笑して、今夜出発は夜中だから、それまでに、珠江のふちを散歩してごらんなさいといった。幸い工作員には聞えなかったらしく私はほっとした」とのことだが、どうやら初っ端から一行28人は進歩派と反動とに二分されたようだ。もちろん進歩派の親玉が常久で、反動の代表が火野ということになる。

そこで「私に自由はなかった。敗北者となった私の中国旅行はどうやら苦しいものになりそうな予感がしてきて、私は一行の大部分の人たちのように、どうしても浮いた気分になれなかった」と消沈気味の火野は、「中国を征服していた時代のたかぶりおごっていた愚かさを、今さら悔いてもしかたがないし、謝罪してみてもなおさらはじまらぬことであろう。歴史はそんな甘さを冷酷に蹴とばしている。私はおびえてきた」と続ける。その挙句に「しかしまだ中国に入ったばかりである。私は北京が恐ろしいところのように思われて、憂鬱でさえあった」と、『麦と兵隊』『花と兵隊』の生みの親らしから弱気をみせる。

一行は市内見学のバスに乗るのだが、弱気の虫に取り付かれた火野は、「足も心も重かった」。やがて第一次国共合作時(1922年~27年)、毛沢東が所長を務め、多くの農民活動家を育てたとされる農民講習所に向かう。「いまは歴史的遺跡として保存され、なににも使われていないが、ここから中国革命が発祥したともいえるのである」場所だけに、一行の中の進歩派は大はしゃぎの態のゴ様子だ。ノー天気の極みということだろう。

彼らは、毛沢東が寝起きした当時そのままにしてある毛沢東所長の居室に「特別に感慨をおぼえて、なかなか動かない。寝台や机にさわってみたり、ためいきをつくようにして、すばらしいと感嘆の声をもらしたりする」。確かに歴史的な場所だけに、火野も「私とて現在のような革命の大事業が、こういうささやかな場所のささやかな努力から実を結んだことについての感動は小さくなかった」と感慨を記す。だが、「一行の革命家たちはさらにここが去りがたい風情に見うけられた。或る者は敬虔の面持さえうかべていた」と、進歩派を揶揄することも忘れてはいない。

「『さあ、早く行こう。もう十二時をとっくに過ぎたよ』/革命が好きでないらしい篠原さん(自由党員で、婦人科医)がすこしはがゆそうにみんなをうながした」。

愛群ホテルに戻って遅い昼食。その席で、中国側は巧妙な“買収工作”に出る。《QED》