【知道中国 1635回】                       一七・九・卅

――「独逸の活動心憎きまで潑溂たるものあるを感じた」――(米内山1)

米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)

 

米内山庸夫(明治21=1888年~昭和44=1969年)は青森県七戸の生まれ。東亜同文書院卒業後に外務省入省し北京で留学生活を送り、後に領事として杭州、満州里、広州などに勤務。戦後は外務省情報部嘱託。趣味人でも知られ、中国の陶磁器に造詣深く『中国陶磁器』を残す。また自らの中国体験に基づき中国人の振る舞いを判り易く綴った『支那風土記』は、後藤朝太郎による膨大ながら定型的な中国関連著作を遥かに凌ぐ面白さを秘めている。蔵書は「米内山文庫」として青森県図書館に納められているとのことだ。

 

巻頭の「自序」に「私は、明治四十三年七月、上海より行を起こし、香港、海防を經て雲南に入り、さらに北して四川に出で、それより揚子江を下つて、十一月に上海に歸つた。その間、海防から雲南省城の昆明までは滇越鐵道に依り、昆明から四川省城の成都までは自ら歩いた」と綴り、さらに「顧れば私が雲南四川を廻り歩いてからもう略ぼ三十年になる」とする。どうやら、明治末年の旅行記が昭和15年になって注目されるようになったらしい。

 

では、なぜ「略ぼ三十年」も昔の若者の旅行記が上梓されるに至ったのか。そこには時代の要請があったということだろう。米内山は続ける。

 

「私一人の思ひ出と思つてゐた雲南四川が、今日のやうに我々日本人の前に大きく現はれて來ようとは、全く思ひも及ばなかつたことである。事變以來、外國人の書いた支那邊彊地方の旅行記の邦譯はつぎつぎと數多く現はれるけれども、日本人の書いたものは殆ど出ない」。そこで思い掛けずに得られた「稍閑」を使って旧い記録を整理した。「今日の時勢に鑑み」、「縱ひ貧しい記録ではあるとしても、これを大方の前に捧げて、支那邊彊の事情を明かにする上に何等かの參考たらしめることが、この際、私のなすべきことではないかと考へ」たことから、出版に踏み切ったとのことだ。

 

「自序」の最後は「昭和十五年六月二十二日 米内山庸夫」と記されている。ということは我が帝国海軍が真珠湾攻撃を敢行し、大東亜戦争の戦端が開かれたのは、本書出版から1年半後ということになる。

 

米内山の語る「事變」は、昭和12(1937)年7月7日に勃発した盧溝橋事件をキッカケとして、中国大陸全体に拡大した戦争――支那事変を指すものと思う。そこで考えさせられるのが、「事變以來、外國人の書いた支那邊彊地方の旅行記の邦譯はつぎつぎと數多く現はれるけれども、日本人の書いたものは殆ど出ない」との指摘だ。「外國人の書いた支那邊彊地方の旅行記の邦譯はつぎつぎと數多く」出版されるが、「日本人の書いたものは殆ど出ない」ということは、あの緊急時にもかかわらず、日本人の「支那邊彊地方」に対する関心・理解は、外国人の書いた旅行記に基づきこそすれ、日本人の手になるものではないということ。いや、日本人は「支那邊彊地方」に関心を示すことなく支那事変を迎えてしまったと考えても、強ち間違いなさそうだ。まさにドロ縄状態というしかなさそうだ。

 

そういえば、半世紀以上昔の大学生当時、戦時中に帝国海軍軍令部に勤務していたという元情報将校から、「海軍は南太平洋の詳細な海洋・島嶼図を持ってはいなかった。ガリ版刷りの簡単な図面で南太平洋に軍を進めた」といった趣旨を聞いたことがあり、なんとも暗澹たる気分になったことを思い出す。ガリ版刷りの簡単な海図とは、心許ない限りだ。

 

ここで些か唐突ではあるが、支那事変に際しての小林秀雄の発言――「相手を征服するのに相手を真に理解し尽くすという武器より強い武器はない。これは文化の定法であって、わが国文化は、明治以来この定法通りに進んで来た」――に思い至らざるをえない。米内山に拠る限り、「この定法」は必ずしも生かされていたわけではなかった・・・ようだ。《QED》