【知道中国 1633回】                       一七・九・念六

――「濫りに東方策士を以て自任す。此徒の心事最爲可憫」(阿川7)

阿川太良『支那實見録』(明治43年)

 

考えてみれば「大利」があれば「小利」があり、「小害」があるなら「大害」があっていいはずだ。

 

この伝でいうなら、「子々孫々の日中友好」という“呪文”は、中国側にとっては「大利」を生み出し、日本側には「大害」にしかならなかった。東シナ海の領有権問題の棚上げやら共同開発などという“目晦まし”も同じだ。中国側には「大害」も「小害」もなく、あったのは「大利」だけ。逆に日本側は「小利」すらも得られずに、被ったのは「大害」でしかない。改革・開放に際して経済発展すれば独裁から民主化へ向かうなどという“嘘八百”に乗せられた結果、日本側には「大害」となったものの、中国側は世界第2位の経済大国という超のつく「大利」を得ることとなった。「大害」を被ったとはいうものの、いまさら騙されたなどと恨み節を口にしたところで詮ないこと。こっちが惨めになるだけ。しょせんは騙した方より騙された方がバカだったわけだから。

 

再び阿川に戻る。

 

かりに「票子不渡りと爲り、或いは銀行倒産等の爲めに損害を蒙むるも、被害者より政府に告訴する者もの稀なり」。じつは銀行設立は極めて簡単であり、それゆえ倒産もさほどに珍しいことではなかった。「加害者に制裁を加ふ可き法律もなきにあらざる」ものの、なにせ「賄賂公行の支那衙門」である。被害者が訴えたところで「其の得る所其失ふ所を補ふに足らされば」、やはり「大抵涙を呑んで泣寝入に終はると云ふ」。

 

「加害者に制裁を加ふ可き法律」はあるが、「賄賂公行の支那衙門」を前にしては、被害者は泣き寝入りするしかないとは、なにやら現在にも通じる。「賄賂公行の支那衙門」とは、嗚呼、万古不易ということだろう。人治は法治を駆逐する、である。

 

『支那實見録』を一貫する「支那の事到底日本人の心眼を以て忖度すへからさるなり」の立場から、阿川は清国にやって来る日本人について論じた。

 

「近來支那に來るの人」は多いが、やはり時期によって違いが見受けられる。最初にやって来た人は「忠誠憂國倜儻卓識の士」であり、次にやって来たのが「麤放無頼淺見寡聞の徒」、そして「現今に至りては則ち小心窄胸委瑣齷齪の倫のみ」である。

 

第一世代の「忠誠憂國倜儻卓識の士」は艱難辛苦の末に、「上は政敎人情より下は風俗習慣の微に到るまで」を詳細に捉え、日本人を啓蒙し、後からやって来る者を善導しようとした。「其の辛勞、其の功德共に堙滅すべからざるものあり」。

 

第二世代の「麤放なる者は心純ならず、寡聞なるものは、慮遠からず、不純の心を以て物を見る」から、軽薄短慮に傾く。にもかかわらず功を欲し、「世人の感動を望む」。現実に基づかないから「事を企てば則ち敗れ、人に謀れば則ち應せず」。そこで感じた虚しさの裏返しで「大言放語、空談虛論、盛んに東洋の大勢を説き、肆まに對清の議を籌り、濫りに東方策士を以て自任す」。こういった手合いこそ、「心事最爲可憫」である。

 

第三世代ともいえる「小心齷齪の倫に至りては固より、胸に經綸の雄圖なく、心に起案の畫策なく、又焉んぞ山川を跋渉するの勇氣」もない。だから、ああだこうだと小賢しい詮索に終始するばかり。偶に「一奇を得れば則ち嬉び、謂へらく吾能く事情に通ずと」。なかには商店を開こうという目的を持っているものの、「其資本を質さば則ち曰く未ださだまらず」と。そればかりか「僅かに清語を獨習、地圖の點撿に過ぎず」。こういった手合いは「一會社の社員と爲り、一商店の小僧たるを得ば則ち止まんのみ」と記した後、「嗟乎蕃籬之鷦鷦曷以鳳凰之心、溝澮之蝘蜒豈能知龜龍之志哉、巳矣哉」と締め括っている。

 

阿川の時代も、「蕃籬之鷦鷦」や「溝澮之蝘蜒」が跳梁跋扈していたわけだ。《QED》