【知道中国 1631回】                       一七・九・念二

――「濫りに東方策士を以て自任す。此徒の心事最爲可憫」(阿川5)

阿川太良『支那實見録』(明治43年)

 

「海關」、つまり税関吏には新と旧の二種類がある。「新」である「外國貿易場の税關」は全国に19カ所あり、ほぼイギリス人税関司が管轄し莫大な税と商機を握っている。一般に「支那人猜疑心多し」というが、それはウソだ。自国の税関を「外人の蹂躙する所たらしめ」たまま指を銜えているとは何事だ。もはや、この国には「感慨悲歌之士は藥にする程もなく、饕餐無砲私利之れ貪り敢て國家を顧みす、唯汲々乎として阿堵物も得んことを務む」。かくして「頭も金の爲めに叩き、腰も金の爲に屈し、只た只た金なきを是れ感慨悲歌するの士あるのみ」といった状態――粗にして野にして卑が過ぎる――となるわけだ。

 

ともかくも「税關の小吏等は」、上司の「西洋人等に蹂躙叱咤」されても唯々諾々と従う一方、商人らには難癖をつけ賄賂を取り私腹を肥やすのみ。このような彼らの振る舞いが「大いに自國の利を剥奪せらる」にもかかわらず、である。税関吏のみならず清国人全般が「西洋人とさへ言へば到る所皆尊敬の意を表」す。殊に巡査の卑屈さは度が過ぎる。

 

じつは西洋人税関司が日本人を雇おうとしたことがあるが、清国人の徹底反対に遭って断念せざるをえなかった。それというのも「其の眼光の慧鋭なる」「其の手腕の鋭敏なる」「其の言語の熟達なる」「其の人種の同類なる」日本人が税関吏に就いたら、清国人の不正は忽ちに暴かれ、「遂に渠等の權利と職業が日本人に移らんことを恐れ」たからだそうだ。同胞を買い被り過ぎるとは思うが、やはり「渠等の奸佞卑劣」ぶりを「特書」したかったのだろう。とはいえ阿川は、「固より日本人は誰一人として支那人に雇はるヽことを望」むわけがないと記すことを忘れてはいない。

 

ともあれ清国人官吏は税関に持ち込まれた品物につき、「歐米人等の分を先きにし、我邦人の分を後に」するだけでなく、イチャモンをつけることを常とした。また銀行においても、日本人が取り引きを依頼すると、「渠等はフン又少額の爲換をと云はぬバカリの顔色にて見向きもやらす」に後回しにされてしまう。ともかくも税関でも銀行でも「日本人の虐待を受け不便を蒙ること推知すべし」だ。

 

対外貿易の要である税関のうち、西欧人管轄の新税関がこういったデタラメだから、「國内水陸四通の地に設置し、運搬貨物に對し抽税する所」の「舊海關」に至っては、「賄賂公行下民虐待の支那」なれば、もはやいうに及ばないだろう。

 

かくデタラメ極まりない清国であるにもかかわらず、我が政府は明確なる対応策を打ち出していない。かくて阿川の憂国悲憤の情が迸る。

 

「嗚呼今日我國の政府は如何、國家の大本未た立たず、施政の方針未だ定まらず、苟且偸安、因循姑息、一時之れ彌縫、目前之れ畫策、一事起れは委員之擇び、國會開くれは議員之れ籠絡、外交の事に至ても清國に於てすら歐米と對等の條約を締結する能はさるにあらすや」と。阿川の憂情・切歯扼腕は現在にも通ずるが、ともかくも先を続けたい。

 

「其の人を外國に差するや不平家若くは遣り塲なきもの若くは老朽無用のものを以て之に當つ」。いまや「最も多事有爲の手腕を要する支那朝鮮の公使」にしても、「老朽無爲の」大鳥圭介を当てる始末だ。国会にしたところで旧態依然であり「政府の古穴を深堀」するだけで建設的な働きなど微塵もみられない。政治家がブザマさを呈すれば、「紳商豪農」もまた「眼前の小利に?々として、永遠の鴻益を忘却」するばかり。結局は「唯自已の安全を圖かり、公共の得失を顧み」ない。こんなことをしていては、「隣邦天府の財源は擧けて外人の爲す所に任す」しかない。だから「我内治の擧らさること」「商業の振はさること」「國權の伸はさること」は如何ともし難い。目下の「東洋の雲行き」や「西洋の形勢」を前にして、「天涯萬里の孤客」は「悠々安坐し得へき乎」・・・嗚呼、昔も今も切歯扼腕。《QED》