【知道中国 1630回】                    一七・九・廿

――「濫りに東方策士を以て自任す。此徒の心事最爲可憫」(阿川4)

阿川太良『支那實見録』(明治43年)

 

西洋人商人は天津に設けられた英仏の2つの租界において、いずれも豪壮な商館を構えて取引している。「翻て我商館を見るに」、最大規模の三井洋行ですら「支那家屋を以て之に當」て、多くは「佛租界中の一小屋に蟄居するのみ」。かくて「自尊自慢」が習いの「支那人」なればこそ、日本商館を見て「豈に歐人を揚げ、我國人を貶せざらんや」。

 

日本商館が貧弱ゆえに、現地商人は「豈に歐人を揚げ、我國人を貶せざらんや」との主張で思い到るのが、時に華人企業家が口にし実践して来きた「建物は富を生まない」という“哲学”だ。たとえば今や世界の華人企業家の代表的存在であり、北京政府とも密接なパイプを持つタイの謝国民(タニン・チョウラワノン)は、自らが率いるCP(正大)集団の本社を、バンコクのチャイナタウンに置いたままだった。80年代半ばに本社を訪れたことがあるが、CP集団の営業規模の大きさに較べ、建物の貧弱さに驚かされた。その後、同集団は本社をバンコクのビジネス街のど真ん中に移転させたが、それでも日本の大手商社本社の高層で超豪華な佇まいに較べたら、明らかに見劣りがする。

 

であればこそ「歐人を揚げ、我國人を貶せざらん」とする要因は、他にもあるように思える。もちろん、19世紀末の天津と現在のバンコク、天津商人とバンコクの華人企業家とを同列に論ずることの当否はあろうが。

 

再び阿川に戻ると、じつは「我航海船の初めて當港に通ずるや、邦人相爭ふて店を開きしも」、やがて多くは撤退し、いまや三井洋行をはじめ4軒のみ。その原因を探ってみると「一に曰く氣候激變の甚だしきこと」、「二に曰く活計程度の高きこと」、「三に曰く資金の薄弱なること」、「四に曰く忍耐力に乏しきこと」である。

 

天津の夏冬の過酷な天候は、「第一軟弱なる商人等の勝ゆる能わざる所」だ。「當地家賃の昂貴なることは殆ど我東京に駕し、庶物亦之に伴ふ」点に、駐在日本人は苦しむばかり。加えるに「輕く人を信ぜす、又深く人を信す」という「支那人の性」も、日本商人の定着を阻む要因という。先ず立派な店舗を構えれば、彼らは心ひそかに「虛飾店」と見做し「必らずや日を經ずして斃るへしと、笑て顧み」ない。

 

だが、ここで持ちこたえれば3年目にして「是れ侮るへからすと、憑るへき乎と」態度を改め、「是より信を置くこと日に厚く心傾け誠を盡す」ことになる。彼らは「既に一旦信を措く以上は、仮令他より喙を容れ誹謗讒間を試むるも、渠れ堅く信して疑」うことはない。だが、なにせ日本人商人は「薄資にして忍耐に乏しきもの」であり、「三年の久しき豈泰然自若として」営々と日を送ることができない。「大抵一ヶ年若くは二ヶ年にして『アー支那ハ駄目ダ』との嘆聲を發し、店を閉づるに至る」。かくて阿川は、「嗚呼忍耐なる二字は、是れ商家の骨髓にあらずや、而して今志を立て、萬里の波濤を、踐み破りたる商人にして尚如此、我商家の賑はざる」は致し方なし、となる。宜なる哉。

 

以上の指摘は、なにやら現在にも通じるように思えるのだが・・・。

 

次いで阿川は「明治廿四年中支那貿易各港總輸出價格表」ほかの貿易統計を示しながら「我國の遠く歐米に及ばざること明瞭なるべし」。「我邦人の徒らに喋々東洋貿易の事を説く」が、実情から見て「實地手を下すもの尠なき」ことを示している、とする。その「大なる原因」は、貿易港數の歐米人より寡きこと」である。当時、上海、漢口、廣東など25港が海外に向って開かれていたが、日本との条約港は上海、鎮江、漢口、九江など14港に過ぎなかった。「他は皆歐米人の爲す所に任す、我邦人は唯だ指を咬へ涎を垂るゝのみ」。「我國と支那」との地理的・歴史的関係からして欧米諸国に遅れを取っている点を、「局に當るの人一考して可なり」。「局に當るの人一考して可なり」とは・・・今も同じだろう。《QED》