【知道中国 1629回】                       一七・九・仲八

――「濫りに東方策士を以て自任す。此徒の心事最爲可憫」(阿川3)

阿川太良『支那實見録』(明治43年)

 

情けないほどの「支那軍備の不整頓」の次に感じたのは、砲台の「側に簇立する土人の家屋」の想像を絶する劣悪さだった。

 

ここで「土人」の2文字に注目したい。現在では「支那人」ですら中国では“屈辱もの”になっているが、文久2(1862)年に幕府の千歳丸で上海に出掛けた高杉晋作たちは一般人を指して「土人」と呼んでいる。これまで目にした文献の記述を振り返ってみると、やはり『支那實見録』、つまりは明治20年代の半ば辺りに見られるようになった清国への関心の高まりと共に、「土人」の2文字は使われなくなっていくように思える。

 

幕末から現代まで、「土人」「支那人」「清国人」「清人」「チャンコロ」「漢人」「中国人」と呼称の変化を追ってみると、かの国への日本の関り、かの民族に対して日本人が取って来た“間合い”の変化を読み取ることができるだろう。

 

阿川は「土人の家屋」について、続ける。

 

それは「皆泥屋のみ、蓋し此の山岳なく、隨て木材に乏しく、又砂石なく、唯た河邊蘆萩繁り、地下粘土を得べし、土人等は其粘土を乾燥して壁と爲し、蘆萩之を蔽ひ、又其の上に土を塗り以て家屋となす、其の宛も燕巢の如し」。ツバメの巣のようなものだから、当然のように「一旦大風が起り淋雨至れば家屋忽ち崩壊」してしまう。だが彼らは「敢て憂ふる氣もなく」、また同じように「土と萩とを採り所を撰んで燕巢を造る、洵に手輕棲居と謂つべし」。ここから、「土人」を取り囲む過酷で潤いなく単純極まりない自然環境、そこから生まれる超保守性、忍耐力、あるいは自らの人生に対する諦念など、生まれながらにしての様々な属性を感じ取る。それは明らかに山紫水明の列島に生きる日本人とは異なるはずであり、同時に日本人には感得できそうにない。

 

阿川は、両岸の殺風景な景色を眺めながら白河を遡って到着した天津を「北京に通ずる咽喉にして、滿洲蒙古を控へ南清地方の衝路に當る」と捉え、「百貨輻輳、富賈蝟集其の貿易の盛大なる漢口に類し上海に次ぐと云ふ、寔に北支第一の繁港」と評価した後、貿易について論ずることになるが、その前に、「固より支那四百餘州を睥睨して、予の雄心勃々たるも、今日の形勢を以て考ふるに、支那政府如何に因循に流れ如何に苟且に陷るも、未た仲々二三年間には滅亡する景色も見えざれば、先づ其の雄心は胸中に蔵し置き、平和の戰爭なる貿易の事より筆を起すべし」とする。ともかくも、簡単には滅びそうにないのだ。

 

ここに示された阿川の考えを推測するに、「支那四百餘州を睥睨」すべくやってはきたが、どんなダメ政府であっても短時日のうちに「滅亡」する気配は感じられない。やはり百聞は一見に如かず、ということだろう。かくて「平和の戰爭なる貿易の事」に筆を進ませる。

 

ヨーロッパとの交易は漢代にはじまるが、ヨーロッパの大航海時代を経て「清の初め浙江省に定海縣を置き、城外の埠頭」を交易場所に定めたことから、「各國の商船多く此れに集まる」ようになった。だが「貿易は尚廣東の一所に止まれり、而て海關吏等は貪欲無道私利之れ求め格外に苛税を課す」。そこで外国商人が不当を訴え矯正を求めるが、清朝政府は一向に取り合おうとはしない。そこで「貿易の道大いに衰」えたのだ。

 

だが軍事的圧力を背景にロシアやイギリスが通商関係を樹立するや、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、ベルギー、イタリア、オーストリア、日本、ペルー、ブラジルなどが次いだ。

 

かくてヨーロッパ人が「世界の財源」であり、「粟穀蔽地、金玉滿山、累々穣々窮極する所を知らず」して「貨物の天府」と称した中国の富をめぐった“大競争時代”が幕を開けるのだが、天津で阿川が目にした「我商館」の姿は、じつに心許ないものだった。《QED》