【知道中国 1628回】                       一七・九・仲六

――「濫りに東方策士を以て自任す。此徒の心事最爲可憫」(阿川2)

阿川太良『支那實見録』(明治43年)

 

阿川の人生を振り返ってみると、『支那實見録』は彼が上海に滞在した明治26年から27年の間の調査・経験に基づいて記されたようだ。「明治廿四年中支那貿易各港總輸出入價格表」「明治廿五年中天津港輸出入物貨價格表」を引用している点からも、こう考えて間違いないだろう。

 

『支那實見録』の冒頭で、阿川は世間に流布する論議に疑問を示す。

 

東京に住んで1年になるが、「尚未だ風俗の微、習慣の細、盡く以て了得すること能はざる」である。このような自分の経験に照らしてみても、世の「支那漫遊者、僅かに半歳若しくは一ヶ年の短時日を以て、或は堂々東洋の大勢を論じ、或は滔々對清の大策を説き、或は縷々萬言一書を著すこと」は、やはり「獨り怪む」しかない。

 

「夫れ支那は世界の大國なり」。面積は欧州に「二倍し」、人口の多さは「世界に冠たり」。だから簡単に結論づけ策を立てるなどということは「豈に誤謬なしとせんや」。だから自分としては「靜觀黙察、自悟自信、然る後初めて口を開き筆を執」る。そこで項目を設けて理路整然と記述するのではなく、「隨觀隨筆、直情徑記辭を修めず、賁らず、實況を記し實態を寫すを以て主となす」ことに努めたい。

 

阿川としては「腰掛主義」ではなく「永く斯土に住することを期す」ものの、なにせ極端な寒がりであり、天津のような「河水氷結朔風凛冽寒計零度を下るの地」は堪らなので、福建辺りに寒を避けるか、あるいは突然に帰国してしまうかもしれない。だが「其れ迄は身體の勝ゆ可き限り、事情の許す限り、一心不亂探檢を遂げ」たいと考える。そこで「世間有爲の士清國の事に付取調を要する事項あらば」、それを『庚寅新誌』に連絡してもらいたい。「予は其の事項の紙上に登るを見て、直ちに之れが取調に從事せんとす、讀者請諒焉」と、自らの立場を記したのである。

 

ということは阿川の清国行きに対し石川(というより『庚寅新誌』と思われる)が資金を提供した背景には、読者の清国に対する関心の高まりという当時の世相があったように考えられる。しかも読者の要望に応じて「取調に從事せんとす」るというのだから、読者の興味に積極的に応えようという『庚寅新誌』の販売戦略が絡んでいたに違いない。

 

ここで改めて当時の主な出来事を拾ってみると、明治26年は郡司大尉の千島探検出発(3月)、海軍軍令部条例公布と戦時大本営条例公布(共に5月)、郡司大尉択捉島到着と福島中佐単騎シベリア横断成功(共に6月)など。翌27年は金玉均上海で暗殺(3月)、朝鮮東学党全州占領(6月1日)、清国の朝鮮出兵に対抗し日本朝鮮派兵を決定(6月2日)、朝鮮政府の清朝への援兵請求(6月3日)と緊張が続き、遂に清国に対する宣戦布告(8月1日)に到るなど、朝鮮半島をめぐって利害の対立が表面化することになったわけだから、清国への関心が高まったとしても不思議ではない。それだけに阿川の清国行きは、『庚寅新誌』による“企画”に絡んでいた。つまり阿川の「支那實見」の旅は、言い出しっぺの石川が『庚寅新誌』から引きずり出した資金が元手になっているということではなかろうか。

 

阿川の「支那實見」の旅は天津からはじまる。

 

最初に目にした砲台について、「其の建築たる、唯だ泥土を以て塗り疉みたるのみ」。「重砲も亦利機にあらず」。この地の砲台は「實に是れ近くは天津の關鑰遠くは北京の守門、一朝瓦解せば城下之盟直樣と云ふ肝要大切なる場處なるに、其の膽旦粗なること此くの如し、人をして一旦支那軍備の不整頓なることを知らしめ、又忽ち輕侮の念を起こさしむ、洵に支那の爲め慨嘆の至に勝へず」と。阿川は初っ端から「忽ち輕侮の念を起こ」す。やはり百聞は一見に如かず、である。阿川は勇躍と歩みだす・・・なんでも見てやろう。《QED》