【知道中国 1626回】                       一七・九・仲二

――「此行各地官商熱誠優待來接者不知其數・・・」――(永井)

永井久一郎『觀光私記』(明治43年)

 

永井久一郎(嘉永5=1852年~大正2=1912年)は『墨東綺譚』で知られる断腸亭主人こと永井荷風の父親である。愛知は知多の豪農の家に生まれ、早くから漢学と漢詩を、上京後は英学を修めた。名古屋藩の貢進生となり、東大の前身である大学南校や慶應義塾に学ぶ。藩命で明治4(1871)年にアメリカに留学しラテン語を習得。帰国後、工部省に入省。以後、文部省、内務省などを経て、芳川顕正文部大臣首席秘書官。この時、教育勅語の起草に参画したという。

 

明治30(1897)年、45歳で文部省を辞し、西園寺公望・伊藤博文・加藤高明ら明治元勲の誘いを受け日本郵船に入社。上海・横浜支店長など。上海時代、再び漢学・漢詩に打ち込んだ。明治44(1911)年に59歳で日本郵船を退職し念願の漢詩三昧の日々を送っていたようだが、翌1912年末に急死した。

 

永井は漢詩・漢文への思い入れが相当に強そうで、本書を漢文(1行22文字、1頁11行で全80頁ほど)で綴っている。

 

冒頭に「日本郵船會社長近藤廉平と東京・京都・大阪・横濱・神戸・名古屋の實業家數名、赴清觀光團を結(く)む。将に韓國及び南滿洲より北京に入り、漢口に出で、江(長江)を下り南京に到り、南洋勸業會を觀し、且つ(長江下流に)游ぶ。余、亦、陪行す」と記されているところから、永井は近藤廉平を団長にした「東京・京都・大阪・横濱・神戸・名古屋の實業家」による経済事情使節団に陪行ということになる。

 

明治43(1910)年の5月から6月末までの2ヶ月ほどを使い、一行は朝鮮半島を経て、奉天、撫順、金州、大連、旅順、営口、天津と回り、北京から南下して長江中流の要衝である武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)に至り、長江を下って上海・蘇州・杭州を周り、7月1日に神戸に戻っている。

 

じつは、この旅の翌年10月10日に武昌の清軍駐屯地内で発生した爆弾暴発事件をキッカケに一気に清朝は崩壊へと突き進んだわけだから、当時の清国国内状況は極めて緊張していたと思われるが、『觀光私記』からは、そんな気配は一向に読み取れない。

 

一行が訪ねた先々の情勢は緊張していなかったのか。清国側が亡国一歩手前の状況を、一行に感じ取らせまいと巧妙に取り繕っていたのか。はたまた一行には革命前夜の緊張を読み取る力がなかった、つまり鈍感だったのか。清国情勢など眼中になかったのか。

 

江戸期以来、知識人にとっては必須と見做されていた漢文・漢詩だが、一面では日本人の発想を貧弱化させ、表現方法を定型化させてしまったのではなかったか。こう日頃から考えてきたが、『觀光私記』を読み進むに従って、その感を益々強くした。

 

たとえば永井の使っている動詞だが、「發」「到」「送別」「來」「辨事」「介紹」「同飯」「上車」「逢」「赴」「邂逅」「過」「就寝」など日常的な行動を示す動詞が少なくない。ということは、抽象的な思考を綴っているわけではないということになるだろう。

 

かくして「両國國民、此れ從(よ)り日々に親睦を益(ま)し、同文同種の好を失わざる也」とか、「(両国の)實業家、互相(たがい)に來往し、逾(いよいよ)敦(あつ)く親睦し、以て東亞の平和・富強を維持せん」とか、「此の機、兩國實業家の和親の漸なるを以爲(おも)う。是れ由り推して兩國國民全體に及ぼさば、則ち中日兩國國家の福利は、實に諸君に於けり」などといった“愚にもつかない常套句”が散見される始末だ。

 

旅先で出会った清朝側要人や日清双方の経済・貿易関係者などの個人名が克明に記されてはいるが、『觀光私記』からは山川の『巴蜀』に見られる“必死さ”は微塵も感じられない。しょせん漢学自慢の成功者による上から目線の“大名旅行記”・・・バカバカしい。《QED》