【知道中国 1625】                        一七・九・十

――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川15)

山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

 

「将を射んと欲せば先ず馬を射よ」ではないが、西洋人のやり方は日本人とは違う。

 

「現在重慶在留西洋人の事業中、尤も耳目に響くものは、彼等の唯一手段たる病院及び宣敎となす」。この点は「本邦人の仿ふ能はざる所」であり、彼ら西洋人は「之を以て着着其功を収むるだけそれだけ、本邦人は其發展上に消極的侵害を被ると謂ふべし」。

 

病院中最大は「米人ドクトル、マーカードネーの設立せるもの」。彼は10数年前に「空拳にて此地に來しが、如何なる手腕や有ありけん、内外官民の信用を博し、全然其義捐を以て、重慶一等の形勝の地」に「壮大なる病院を建設せり」。これに次ぐのが「佛國店主敎會の設立せる者」で、3番目が「英國宣敎師の設立せるもの」だ。4番目は「獨乙軍醫に由」って設立されている。

当時の中国における病院経営に関し、山川は「本邦醫師か本邦に在りて、之(西洋人経営病院の成功)聞き、或いは日本賣藥の好評あるを聞き、其技を挟み、巨利を占めんと試みば、多年の星霜を積み、巨萬の資本を投」じたとしても「萬失敗に歸す」だろう、とする。「何となれば、彼は多く政治手段として其醫術を用ゐ、其志單に利上に存せず」。これに対し、「我は最初より絶對的營利を以て其目的とする」からだ――と説く。同じく病院経営ということだが、その目的は西洋人は政治(端的にいうなら中国利権狙い)にあり、日本人は「巨利を占めん」とする点にある。

 

山川が目にした重慶の病院に関してはそうかもしれない。だが、西洋人はひたすら政治から出発し、日本人は「巨利」のみを求めて動くということもなかろう。ここで改めて当時から現在まで続く中国と欧米諸国に日本との関係を振り返ってみるなら、山川による政治と「巨利」という指摘は完全に否定し去れるものでもなさそうだ。やはり日本人としては心しておくべき指摘といっておきたい。

 

重慶における「日、英、佛、米、獨の四國」の領事館を比較して、「英、佛、獨の三領事は常に遊歷滯在の名の下に常に成都に駐在し」ている。だが日本領事は重慶に留まったままであり、四川全体の情勢把握に向けた努力が見られない。重慶の中心街に置かれた英國領事館に較べ、中心街を外れた場所で「支那家屋」を借用した「我領事館の見榮無きに對しては、人情忸怩」とせざるをえない。重慶における列強海軍の配置をみると、各国ともに長江上流の激流に適するように「特別建造の小砲艦」を停泊させている。イギリスの3隻は重慶の上流にまで遡航するが、フランスの1隻は重慶に係留されている。ドイツに至っては軍艦で商品を運ぶ始末だ。

 

これに対し、「我日本は一艦を廻航せしむるの議ありとは夙に聞くところなるが、今は之が實行を見ず」。両国艦船が彼らの利権、在留民、商権を守る任務を帯びていることは敢えて想像するまでも無かろう。

 

これでは四川において日本が、政治の面でも商売の面でも影響力を発揮することもできるわけがない。かくて「空しく長吁を發する外無し」。山川が憤慨した日本外交当局の不作為・消極性、さらには官民の連携の悪さという宿痾は、それから1世紀ほどが過ぎた現在に至っても完治したとは言い難い。

 

旅も終わり近く、山川は辺境に住む羅羅族などの少数民族を指して、漢族の「移住的侵略」を阻止せんがために漢族に対しては獰猛に振る舞うのだが、ヴェトナム方面からのフランスの激しい侵攻に曝されている状況では、「此蠻夷の地を以て、永久に化外若しくは半化外として打棄て置く譯には行かざるべし」と、辺境の今後に思いを馳せる。

 

やがて山川を乗せ「檣頭高く日章旗を掲けたる紅船」は、長江を一気に下った。《QED》