【知道中国 1624】                        一七・九・初八

――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川14)

山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

 

ここで山川に戻るが、山川は四川の最西端に位置する貿易地の打箭爈に興味を示す。同地での貿易は「陸路直接に印度との間に行はれ、商品は茶を以て其大宗を爲す」。四川銀の外に「印度貨幣」が通用している。住民は漢族と「喇嘛蠻子」と称するラマ教信徒の少数民族だった。興味深いのが、「此處までは、本邦人も少なからす其踪跡を留め」、山川が確認しているだけでも前後10人ほどとのこと。そのうちの1人である木田鍈治は明治39年6月に、「商業視察」を目的に同地を訪れている。

 

当時、同地には「英國宣敎師夫婦、那威人一名、佛國宣敎師二名、米國宣敎師二名」が在住していたという。英人夫婦は当初は西蔵潜入を目的に、「印度より陸路四川に入りしが、未だ其志を得ずして、打箭爈に滯在し、已に三年を經過せる趣なり」とのことだ。

 

こう見てくると、明治末年、イギリス、フランス、アメリカの3国は、既に四川の最西端の地に影響力扶植の手を打っていたことになる。じつは四川の最西端はインド、チベットに最も近い地政学上の要衝でもあったわけだ。そう、昔も今も。ところで木田らの目的は、はたして「商業目的」だけだったのか。同時に、彼らの旅費は誰が負担したのだろうか。まさか、彼らが自腹を切ったとも思えないのだが。

 

当時の四川における3大事業といえば、「敎育擴張、兵備擴張、及び漢口成都間に敷設せらるべき川漢鐵道」。そのうちの最難関が川漢鉄道建設であり、「工事の困難は勿論、經費の鉅額、測り易からざる」がゆえに、「今後五年や十年の短時日にては、恐らくは成功を期し難からん」とするが、「その初一念を貫かんとする支那人の意氣込、萬里の長城を築成したる祖先の遺血を傳ふる」点を記すことを、山川は忘れてはいない。なお、鉄道経営に関するノーハウに関しては「明治三十九年の春、新たに鐵道學堂を設立し、本邦より工額士橘、原、百瀬の三氏を聘し、其敎習とせり」。「川人の目的は、此學堂にて養成したる學生を以て、諸般の經營に任ずるに在るものヽ如し」。100余名の学生が学んだとのことだが、なにせ「普通學の素養なき爲」に専門課程を教えるまでには至っていない。かりに日本の鉄道技術が四川に定着し、それをテコに四川全域に日本の影響力を保持し続けていたと考えるなら、四川の地政学上の位置からして、その後の日本の中国政策は現実とは違った経緯を辿ったことだろうに。

 

さらに山川は精力的に歩いた成都とその周辺の名勝旧跡に関する記述を残しているが、詳細な旅行案内に近く、敢えて割愛する。

 

「明治三十九年六月十四日 成都を去り、歸東の途に上る」。いよいよ帰国の旅となる。

 

翌15日には敎習として地方に派遣されている「千葉縣人瀧口定次郎氏夫妻」や「茨城縣人後藤美之氏」を訪ねる。「故郷への事傳てもやあらん」というわけだ。瀧口夫妻や後藤のその後を知りたいところだ。

 

「二十日 午前十時、重慶府に達す」。四川唯一の開港場だが、上海に較べれば極めて小規模であり、「明治三十九年末の帝國領事館の報告に據れば、外国人は日本人(24人)、イギリス人(48人)、フランス人(22人)、アメリカ人(27人)、ドイツ人(7人)、その他(2人)の総計130人。

 

「重慶の本邦事業としては」商業以外に教育事業が認められるが、「支那には西洋人の經營せる學校は各地に在れども、本邦人の創設せる者は、極めて希に、此點に於ても、彼れ西洋人に一歩を讓り居りける」。ビジネスに関するなら「西洋商館としては、數ふるに足るものにあらざるに似たり」。だが「竊に彼等の云爲する所を察するに、各個人の發展を謀るよりは、先ず根柢に於て、勢力を扶植するを急とし」ているというのである。《QED》