【知道中国 1623】                        一七・九・初六

――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川13)

山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

 

日本人の中国理解(誤解?)の歩みを思い起こすと、『論語』以来、どうやら「本國にては、左程の取沙汰も無」いような「小説的事実」に翻弄され続けていたのではないか。「支那にゃ四億の民が待つ」などと大言壮語したところで、その「四億」の実態を弁えていたのだろうか。「小説的事実」に根差した「四億」がバカ面しておとなしく待っていたわけではないだろう。現実に目の前に立つ「四億全体」は煮ても焼いても食えないとまではいわないが、日本人の「小説的事実」のようなモノサシでは測れそうになかった。

 

たとえば頭山満、宮崎滔天、犬養毅、山田兄弟、萱野長知、さらには梅屋庄吉などから物心両面にわたる計り知れないほどの支援を受けながらも、最終的に孫文は彼らの期待とは違った「容共連ソ」の道を択んだ。しょせん孫文は、日本人が希求した「アジア主義」における同志ではなかったということだろう。だが孫文の一連の行動の根幹に今風に表現するなら“漢族ファースト”という考えがあったとするなら――多分、そうだろうが――、それはそれで認めざるを得ないようにも思う。

 

やはり日本人の目にする「小説的事実」は日本人だけが思い描いている「小説的事実」にしか過ぎない。そういえば文革時代の日本には、毛沢東思想心酔派から毛沢東毛嫌い派まで、日本人が“これだ”と思い込んだ「小説的事実」が氾濫したことを思い出す。毛沢東が死んで文革の実態が次々に暴露されてくると、あの10年間ほどの間の日本の政界、学界やメディアに垂れ流されていた文革関連情報は、そのほとんどが日本人だけが信じ込んでいた「小説的事実」だったことが白日の下に明かされることとなった。にもかかわらず日本から「小説的事実」が消えそうにない。

 

やはり周恩来は一般に呼ばれていたような「周おじさん」ではなかった。毛沢東の冷厳極まりないイヤガラセに耐え抜き、過酷な権力闘争を生き抜くためには、毛沢東の“忠実な執事”に徹する一方で、「人民が永遠に敬愛する周おじさん」を演じ続けるしかなかった。

 

鄧小平が毛沢東政治の残滓を一掃し、政治から経済へと国是を一変するや、経済的に豊かになれば共産党一党独裁から民主化に向かうとの「小説的事実」に従って、我が政官財界は共産党独裁政権に“お人好し”にも経済支援に奔走した。以来、もうすぐ40年。民主化に向かうばかりか逆に独裁は強化される始末。そればかりか、尖閣への侵入、北海道での土地の爆買いなど、傍若無人の振る舞いを繰り返すばかりだ。

 

前政権を担った胡錦濤にしても、政権トップへの就任が決まった前後、日本では「彼は共青団出身の叩き上げだから、革命政党の共産党を国民政党に改造し、民主化への道を進むのでは」などといった「小説的事実」がまことしやかに流れたが、「和諧社会」の4文字のスローガンを掲げた彼の10年の治世の果てに、共産党は国民政党どころか酷民政党に変質したようだ。そういえば蔣介石率いる国民党と鋭く対立していた時代の共産党は、国民党を酷民党と表現していたっけ。

 

現在の習近平にしても、政権トップ就任前後、父親が毛沢東に批判されたこともあり、彼は文革で批判され農村に送り込まれ辛酸を甞めた。農民の苦労を知るがゆえに庶民の心が判るとか、一方では父親の七光りで出世したバカボンであり政治手腕に期待できないなどと両極端の「小説的事実」が学界やらメディアで流されたものだが、政権2期目を前にした彼の政治手法から庶民の心が判る苦労人の雰囲気も感じられないし、ましてやバカボンの振る舞いを見受けることも出来そうにない。

 

世上伝えられるところでは、今秋の共産党大会を前に習近平は“毛沢東型独裁”への道を驀進しているとか。もっとも、それも「小説的事実」だったとしたら・・・。《QED》