【知道中国 1622】                        一七・九・初四

――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川12)

山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

 

山川の筆は教育事情へと移る。

「成都の敎育は、明治三十六年中に於ける本邦敎習の招聘を以て、新舊の界線となすべし」とし、「最初に聘せられたるは、武官松浦寛威外三氏」で、彼らは「武備學堂に在りて、軍事敎育の端緒を開」いた。同年12月、池永太六ら3人が普通教育に従事するべく四川入りし、かくして「四川の新敎育は、本邦人に由りて移植せらりたりと謂ふも過言にあらず」。

 

それ以来、四川では軍事教育も普通教育も日本が手本だった。だが北京の清朝政府の教育方針が「一び西洋文物直輸入主義に傾き、留學生の登用法にも、日本留學生と、西洋留生との間に、甚しき輕重を設くるに至」った「余波」が四川にまで及び、「明治三十九年以後、俄に英米敎習を増聘」するようになった。とはいえ、「最初より今日まで、成都-四川―の敎育は、依然として本邦人の手に存せり」。だが「支那人は一般に、日本敎習に頼るを迂なりとし、内心西洋人のみを聘せんと欲す」るが、「招聘手續の面倒、旅費、俸給の多額、敎授上言語の困難等の爲」に、現実的には次善の策として日本人教習に頼りことになる。

 

それにしても多くを日本に頼っているにもかかわらず、「支那人は一般に、日本敎習に頼るを迂なりとし、内心西洋人のみを聘せんと欲」しているが、ことは教育だけに留まるわけではないだろう。この点に、先人は深く思いを致すことはなかったのか。毎度おなじみの一衣帯水やら同文同種やら、はては同生共死まで、日中関係を形容すべく案出された四字句を余りにも安易に唱えていたのではなかったか。歴史を振り返ってみるなら、中国に対する自主的な判断が、時に四字句の呪文に眩惑されネジ曲げられたことはなかったか。

 

次いで「蜀人の氣質」を論じ、「同じく支那人なれば、蜀人なりとて、其通有性の外に在る能はざるは勿論」ではあるが、大陸中心部からは隔絶する「山國にして、豐富なる天惠に浴せる人民なれば、其氣質一般に平靜なり」。「其外國人に對する態度も、先づ安隱の方」である。旅行家や探検家からすれば、「鑛苗捜索、測量的探檢乃如き、彼等の反抗心を挑發する擧動に出でざる限り、恐くは襲撃迫害を被ること」はないだろう。

 

このように「氣質一般に平靜」であるゆえに、すでに広東や湖南で起こりつつあった清朝打倒を掲げる革命思想も、皆無とはいわないまでも、「蜀人は格別其波動を被らざるが如」きだ。それというのも「蜀の富は彼等をして其堵に安んぜしむるに足り、蜀人の智は、容易に目的の達せられざる革命を唱へ、若くは之に和すの急務ならざるを知る」からである。

 

日本では辛亥革命に際して大きな働くをなしたとも評価されている秘密結社の哥老会について、「本邦人間には小説的事實として傳へられど、本國にては、左程の取沙汰も無」い。「官民共に措いてこれを顧み」ることはない。「其徒は四川にも、成都を始め、各地に散居すれども、無頼の烏合のみなれば、そが如何なる野心を抱くにせよ、思想界には、何の輕重するところもあらざるなり」と、哥老会に対する評価は極めて低い。

 

つまり山川によれば、「其氣質一般に平靜な」る四川人は現状に安んじているゆえに「容易に目的の達せられざる革命を唱へ」ることはないし、ましてや反満感情を抱く現状不満分子が多く参集するとされる秘密結社には思想的に評価すべきものがない、ということだろう。ここで注目したいのが、「本邦人間には小説的事實として傳へられど、本國にては、左程の取沙汰も無」いとの件だ。

 

思えば山川の時代のみならず、現在に至っても「本邦人間には小説的事實として傳へられ」、それゆえに時に過大に、また時に過少に評価され、現実的には日本外交の政策やら進路を誤らせる事例が少なくないように思う。「支那にゃ四億の民が待つ」式の無謀極まりない「小説的事実」も、「本國にては、左程の取沙汰も無」い事例の典型ではないか。《QED》