【知道中国 1621】                        一七・八・念八

――「獨乙・・・將來・・・無限の勢力を大陸に敷けるものと謂ふべきなり」(山川11)

山川早水『巴蜀』(成文堂 明治42年)

 

山川は成都の将来と日本の関係について考える。

在留邦人は「有期契約の上に在る敎習のみなるを以て、現在のところ未だ一個の根柢的定着を見ず、唯だ或期間内、其標跡を托せるに過ぎ」ないし、「商業に至りては、未だ今日まで何の計劃も無かりき」。こんな状態なら、将来、鉄道が引かれ開港場になるなど、成都での商機が開かれたとしても、「既往の事實に徴すれば、恐くは本邦商人の發展を見る可からざらん」。甚だ心許ない上に、イザとなった時に「獨米の妨害あれば、(中略)成都の地には、邦人の影を留めざるに至らんも亦た知る可からざるなり」と、じつに悲観的だ。

 

ここで、20世紀、いや21世紀の現在まで続く日中関係の紆余曲折を考えた時、やはり「獨米の妨害」との指摘が気になるところ。ドイツが蔣介石政権に加担すればこそ、ある時期の日中戦争は形を変えた日独の戦いだった。アメリカは日本の満州・大陸政策が自らの利権を侵害すると見做したからこそ、日本に猛反発したのである。大陸西南の奥深い重慶に逃げ込んだ蔣介石が命脈を保てたのもアメリカによる大量の支援物資であり、軍事指導だった。親蔣介石・反毛沢東を基軸とする佐藤政権の対中外交方針をコケにしたのは、ニクソンとキッシンジャーによる電撃訪中だった。いま中国の自動車市場で、ドイツは電気自動車を駆って、トヨタのハイブリッド車に揺さぶりを掛ける。

 

時代は変わろうとも、日本の対中関係を考えるうえで注意の上にも注意すべきは、やはり「獨米の妨害」ではないか。

 

明治39年12月末の重慶の日本領事館調査では80人(内、女性9人)だが、「西人に比較する時は、僅に第三位」。四川省全体をみても、「各地方に散在せる者は、悉く敎習に屬す」わけであり、やはり「大柢一時の鴻爪を留むるものに過ぎ」ない。かくて四川を中心とする大陸西南部における「本邦人の根柢的發展は頗る寂寞の感無くんばあらず」。とはいえ僅かな数ではあるが、彼らは「直接支那人を對手と」し、上海や天津で見られるように「多數の商人が共喰的」状態にあるのとは違い、「聊か人意を強うするを得べし」とした。

 

日本での生活に較べれば不便ではあるが、それでも重慶や成都在住者は一致協力し工夫して生活している。これに対し地方の場合は家族揃っての赴任とはいえ、「同僚にてもなき限り、全く塊然たる獨居處なり、交通機關不自由」であり、「群を離れて孤客となれるからは、いざといふ塲合に臨めば、何彼にかけ、一方ならざる不便と困難とに遭遇せざる」をえない。

 

「諸種の科學思想を蓄へ、勤勉にして且つ觀察の深刻なるや、本業の旁、必ず何等かの研究をなし居るものゝ如」き欧米からの宣教師とは対照的に、不便極まりない地方で暮らす個々の日本人教習は、「一方ならざる不便と困難」に耐えながらも誠心誠意で教育に当たる。たしかに生真面目で誠実であることは大切な徳目であり、それこそが最大の武器であることは確かだ。だが、それだけで終わらせてしまってはいけない。

 

たとえば日露戦争前、軍籍を離れハルピンに渡り洗濯屋や写真館を経営し、遂にはロシア軍の御用写真師となって軍事情勢を中心に極東ロシア情勢の把握に努めた石光真清(1868年~1942年)のような成功例もある。だが、石光の“個人技”で終わってしまっていることも事実だろう。

 

個々人の貴重な体験・経験・知見を、個々人の冒険譚や思い出のままに終わらせることはない。対中政策を策定・遂行し、あるいはビジネスを展開するために、それらを蓄積し、体系化し情報インフラとして再構築するという“発想”が、なぜ起こらないのか。それこそが日本と日本人の抱える根本的な弱点であり、克服すべき永遠の課題だと思う。《QED》