【知道中国 979】                         一三・十・仲四

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の10)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

戦争時の中国で盛んに見かけた洋車、つまり人力車が見られない。通訳に訊ねると、「もう人力車は広東だけでなく、中国のどこの街からもなくなりました。いまはこの三輪だけですが、これもバスや電車のような交通機関が完備したら、なくす方針です。それで三輪も新車を作ることは許しません」との返事だった。

そこで火野は、「支那の名物といってよかった洋車(上海では齢包車)がすっかりなくなっているとはおどろいた。バクチ、ドロボウ、売淫、乞食、などと同じく、人間が汗水たらしてひっぱる車に、同じ人間がふんぞりかえって乗るというのも『悪い考え』に属するというわけであろうか」と考える。

中国にやってきて「枷を加えられた」と思い、「わざわざ拷問をかけられに来たような気」になり、「一人でかえりたくなって来た」と落ち込んでいた火野にとって、彼が思い抱いていた「支那の名物」は、いまや共産党政権の方針によって一掃されんとしているのだ。であればこそ火野は、自らが体験した旧い中国に対する自らの“罪咎”を省み、新しい中国の姿に一種驚愕を覚えたに違いない。

だが、どっこい「支那の名物」がそう簡単に消え去るわけがなかった。

「出発の時間が来て、階下に降りた」火野に向かって、副団長の佐倉が「火野さんのいうとおり、珠江べりパンパンがたくさんいたよ」と声をかけ笑ったのだ。共産党政権の方針にもかかわらず、「支那の名物」は厳然と残っていたというわけだ。やはり、である。

午後11時45分、火野らの乗り込んだ汽車は、広州駅を後に長江中流の要衝である武昌に向けて粤漢線を奔る。

どうやらソ連に対する対応によって一行は2つのグループに分かれ「それぞれ肌合いの違う代表たちは、感情的、排他的であった」。そのうえ「文化人、学者、経済人、労働運動家、技術者、婦人、という具合にグループができてしまって、格別対立はしないけれども、フラクション同士の批判は相当にするどくきびしいものであった」というが、その対立は、おそらく招待してくれた中国共産党への一種の“忠誠競争”から生じたもののように思える。この種の内ゲバは実に醜態というべきものだが、当人は“革命的信義”を信じ込み、中国共産党への“熱烈なる連帯意識”を抱いているわけだから処置なし、ということだ。

「四、五人集まるとすぐに他人の悪口をいう始末なので、私などもかげではどんなことをいわれているかも知れないと苦笑するのだった」。ここで例の常久が登場する。「ことに常久さんが私を批判する言葉などは、そこにありありときく思いがした。ひどいのが代表に加わりやがったなとか、あいつは選挙に出るために箔をつけに来やがったんだぜとか、なかなか辛辣だった」。

「長い退屈な列車」の旅だが、食事時だけは別らしい。「夕食にいっぱいやったせいか、どの部屋もにぎやかだった」。やがて「事務局から吉報だといって連絡が来る」。武昌着は明朝4時19分だが、「そんなに早くみなさんに起きてもらうのは気の毒ゆえ平和委員会のはからいで、一行の寝台車二輌だけ切りはなして駅にとめるから、七時半までグッスリ眠ってもらいたい」というのだ。「万歳と叫んだ者もあった。やっぱり大したもんだなあと感嘆する者もある。私もこの心づくしに感謝するにやぶさかではなかった」。

だが車窓から人民解放軍を満載した貨車とすれちがった点などから判断して、「万歳と叫んだ」り「やっぱり大したもんだなあと感嘆する」前に、単なる「平和委員会のはからい」ではなく、朝の武昌駅の情況を一行に見せたくない深い事情があったとは考えられないか。

軍事管制下であればこそ、「揚子江もカメラにおさめることは許されない」はずだ。《QED》