【知道中国 978】 一三・十・仲二
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の9)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
後ろ髪引かれる思いの多くの「一行の革命家たち」共々、愛群ホテルに戻ると、平和委員会から両替えの申し出があった。だが火野によれば、「もっとも費用は全部先方持ち、『中華』という煙草は気を配って配給してくれるので、自分の買い物さえしなければ金はいらない道理である」。
ところが昼食中、「事務局長から、みなさんのお小遣いとして、各人に五十円ずつくださるというのですが、いかがいたしますかという提案があった」。「くださる」という表現からして、平和委員会が「みなさんのお小遣い」の提供を申し出たということだろう。有態に言って人民から絞り上げた血税を使っての買収工作ということになろうか。
当時の貨幣換算でいうなら日本円では7500円程度だが、この金額は同じ時期の日本では中卒者の初任給とほぼ同じだ。調べてみると当時の大卒初任給は1万2千円前後だから、各人に渡されることになる人民元の「五十円」は大卒初任給の3分の2ほど。55年前後の中国における物価水準が判然としないので何ともいいようはないが、決して少ない金額ではないだろう。因みに現在の大卒初任給の平均相場は20万円前後のようだ。
さすがに火野は、「私にはそんなものをもらうことをためらう気持ちがあった」ものの、一行の「大半が折角の厚意だからおうけしようと一決」。そこで火野も強いて反対しなかったようだが、「私は枷がさらに加えられた思いがした」と、些か苦しい胸の裡を吐露している。
その日、夕食を終えてホテルの部屋に戻ると、前夜に火野が読みたいと伝えておいた2冊の小説が置かれていた。先ずは『喜訊』だが、「開巻第一ページに『日寇佔領台山時』『有個獣性的日本兵』『把鬼子斬死』等の数語が眼についた」。「次に、『高玉宝』をひらいてみた。第一ページにいきなり『第一章、鬼子兵来了』とある」。
どちらも鬼子兵、つまり日本軍の悪逆非道さをこれでもかこれでもかと書き連ねた小説だ。『高玉宝』は、満州生まれの貧農の子供が勉学の道を断たれながらも地主、日本兵、漢奸と戦い、逆境のなで成長し、やがて文字を学んで自らの人生を綴った自伝体の長編小説だ。中国語学習も3年程が過ぎた頃に読んだ記憶があるが、良くも悪くも社会主義的勧善懲悪・刻苦勉励・社会主義クソリアリズム小説としか思えなかった。
だが当時の時代環境と自らの戦争体験から、火野は2冊の小説に打ちのめされる。「兵隊の時代に、中国人からうらまれることはしていないつもりだというようなことは、一人よがりにすぎない。占領軍の一員であったということだけで、私が日寇の一人であり、鬼子兵であるにちがいないからである」。かくて火野は「私は中国にわざわざ拷問をかけられに来たような気がしはじめた」。
一行が乗り込む汽車の広州出発は夜中の12時。そこで食後、バスで向かった嶺南文化宮には、大亜湾(バイアス湾)上陸と海南島作戦についての展示があった。「この二回ともの作戦に従軍した私は、日寇の一員として、広東人に暗黒の思いをさせ、海南人を空前のわざわいにおいこんだのである。・・・文字どおり、足がすくんでそこから一歩もうごけないような苦しさだった」。かくて火野は「一人でかえりたくなって来た」と意気消沈の態だ。
一行がホテルにとって帰すと「金をうけとりに来るよう連絡があった」。指定された部屋に行くと「ベットのうえにズラリと二十八人分、現金紙幣がならべてあ」り、両替分と「平和委員会からの小遣い五十円をうけとる」。
小遣で一行の心を擽り、さり気なく小説を読ませて戦争当時を思い出させ、火野の心の奥底に潜むわだかまりを刺激する。その人心収攬術は・・・芸術と見紛うばかりだ。《QED》