【知道中国 981】                         一三・十・仲八

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の12)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

ホテルへの帰路、バスの車窓から見える街の風景から、かつてはよく見かけた人力車と「当」がなくなっていることに気づかされる。「当」は所が変れば「押」とも「餉」とも綴り、共に質屋のことである。

時に人力車も見かけるが、「それは人間ではなくてみんな荷物を積んでいた。それらの車ひきはみすぼらしい風体で痩せこけて居り、なお貧困は根づよくのこっていると思われた」だけでなく、「乞食と思われる者もいた」。だが「当」は見当たらない。そこで「亀田さんにきくと、質屋とか金貸しなど、高利で人民を苦しめていたものは一掃された、国営の人民銀行、金融合作社、信用組合などが庶民に有利な条件で、零細な金の融通をしてくれるとうことであった」・・・そうな。

当時の人口は6億前後だったろうか。これだけの人口を抱えているのだ。であればこそ「なお貧困は根づよくのこっている」のが当たり前だし、「乞食と思われる者もいた」としても何の不思議もないはずだ。にもかかわらず招待外交に籠絡されてしまったのか、賄賂もどきの小遣いに目が眩んだのか。それは不明だが、中国訪問者が帰国後にハエはいない。コジキもドロボーも消えたなどと新中国に関するデタラメやら大法螺を吹きまくったことが、日本人に要らぬ先入観を与えてしまい、中国理解を捻じ曲げた大きな原因だったことを思うと、目の前の現実をありのままに伝えることの重要性を改めて痛感する。

それにしても、である。亀田の説明が本当なら、21世紀のいまこそ必要なのは「庶民に有利な条件で、零細な金の融通をしてくれる」金融機関だろう。

人力車や「当」だけでなく、背広も「あの両股が切れている中国婦人服の優美な旗袍もまるで見あたらない」。「街は紺のながれである。男も女も大体似たような便服で、その色の大部分紺地だから、人での多い通りははてもなく紺色がつづいている」。「女には白粉気がまるでなく、紅もつけていないので、ちょっとみると男か女かわからない」。

一行が当局者から何を聞かされていたかは不明だが、依然として貧しかったのだ。にもかかわらずホテルでの昼食は「豪華大菜である。たくさんの皿数が出てとても食べきれない。インド料理がひどかったので、中国料理はおいしすぎ、どうも食べすぎる傾向がある。すこし控える。のどがかわいていてビールがうまかった」。さて一行の喉を潤したビールの銘柄は青島だったのか雪花だったのか。それにしても一行は、「豪華大菜」の向うに依然として貧しい庶民の生活と招待者による政治的意図を感じることはなかったのだろうか。

午後は武漢第一棉紡織廠(武漢国棉廠)の見学だ。事務所で工場概要の説明を受ける。

1951年6月起工、52年5月完成、6月試運転で操業開始。測量設計はすべて中国人技師で若干の部分品を除き機械は全部国産――まさに毛沢東の掲げる「自力更生」そのものだ。95%は新規採用の若い労働者で平均年齢は18歳。女子1600人を含む2400人の「労働者の健康保護には特に注意し、工場にも通風、暖房、冷房の装置がある。託児所、哺乳室、子弟学校、衛生室、浴室、理髪室、食堂、独身宿舎、家族村宿舎、幼稚園等が付属し」、「勤労時間は7時間半」で「三交替制」。「文盲はいないが」、労働組合による学習・娯楽活動は盛んだという。賃金は男女の別なく1ヶ月平均「50円」で、加えて住宅その他の福利施設が格安で提供されている。また国家計画完成のために労働者も経営に参画する――至れり尽くせり。労働者の天国といったところだ。実態は外国からの招待客向けのショーウインドー的工場だったと思えるが・・・。

「50円」とは。思い起こせば広州のホテルで一行に「お小遣いとして」渡されたのと同額。つまり一行は労働者の賃金1ヶ月分に当る小遣いを恵んで貰ったことになる。《QED》