【知道中国 982】                        一三・十一・仲九

――中国では「動詞『賄賂を取る』は規則動詞」だそうです

 

16日、「人民日報」のニュースサイトである人民網は、かの“南京事件”の舞台として知られる南京市の季建業市長(56)が、2000万元(約3億2000万円)を超える汚職容疑で党中央規律審査委員会からの調査を受けていると伝えた。

習近平政権は、発足当初から党・政府幹部の不正・腐敗に厳正対処することで政権への求心力確保と政権基盤の確立を目指していると報じられてきた。最近では国営企業を統括する閣僚級ポストの国務院国有資産監督管理委員会の蔣潔敏前主任(58)が解任されているが、こうも次々に政権中枢クラスの不正・汚職が白日の下に曝されると、共産党幹部とは党中央が推進する方針に叛くばかりか、権力の階段を上るに従って不正・汚職をエスカレートさせることを半ば自己目的化している詐欺師まがいの犯罪予備軍、いや極論するならボロ儲けに生きがいを求める金権亡者と考えたくなってしまう。

共産党政権は発足直後の51年から52年にかけ、幹部の腐敗・汚職と資本家の不正・不法を批判・摘発するために「三反・五反運動」と呼ばれる全国規模の政治運動を展開した。

建国を機に社会が安定し経済復興が始動するや、権力のウマミを知ってしまった幹部と共産党に加担することで生残りに成功した民族資本家が合体し、汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。いわば「お殿様」と「越後屋」という「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化した。そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。

建国後初ともいえる大規模な大衆運動によって、幹部や民族資本家の活動は著しく制限され、結果として社会主義化の方向が決定づけられたともいわれる。だが、息の根をほぼ止められた民族資本家はともかく、幹部の不正が改まることは一向になかった。

毛沢東を筆頭に鄧小平、江沢民、胡錦濤、それに現在の習近平まで、歴代指導者は例外なく綱紀粛正を掲げ幹部の不正・腐敗糾弾を目指し全国規模の政治運動を展開する。たとえば80年夏、鄧小平は「幹部の職権濫用は目に余る。偉そうに体裁を繕うことは知っていても、現実からも大衆からも目を背ける。気紛れで横暴で無責任で無能。そのうえ役人風を吹かせ、上司と部下を騙し、袖の下を求めては汚職も厭わない」と、口を極めて罵ったものの、情況が改善されることはなかった。それもそうだろう。歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。

ここで、これまで何回も登場願った林語堂に又またお出まし願うことにしたい。

彼は1935年にニューヨークで出版した“MY COUNTRY AND MY PEOPLE”(邦訳は『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)で家族主義の弊害を論じ、「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」とし、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と綴っていた。

そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。「規則動詞」であればこそ、共産党政権下でも規則正しく「賄賂を取る」ことが行われてきたことに合点がいく。

中国が「今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備すること」であり、「真に必要としているものは、仁や義でもなければ、名誉でもなく、・・・破廉恥な官吏を引きずり出して銃殺に処する勇気である」と説いた後、林は「共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、・・・古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどに変質しまう」と予言している。

不幸にも遠い昔の林の予言は的中した。ならば今後の日本が相手にするのは、「古い伝統」と綯い交ぜになった共産主義政権ということ。厄介だが、相手にとって不足はない。《QED》