【知道中国 983】 一三・十・二十
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の13)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
平均賃金が「50円」の工員が働いている工場見学となった。
日本の紡績工場と大差のない工場で、「子供のような若い女工が廻転するうつくしいスピンドルのまえで、熱心に機械を見つめながら働いている」。こんな光景がら、火野は「思いなしか、搾取のなくなった世界で働いている労働者たちの顔は明るい」と感じている。
一行は見学した新設国営工場の工場長から「社会主義建設はなお初歩のところにあって、・・・大財閥や大資本家はいなくなっても、少なからぬ中小資本家がいて、統制下で諸種の生産をつづけている。中には何万も工員のいる私営工場もあるとのことだった。このため政府の役人との間に、贈収賄、汚職、材料の横ながし、原料のゴマカシ等の汚職がおこっているらしい」との解説を受ける。そこで火野は「政治はむずかしいものと思」う。
ここで奇妙に思えるのは、社会主義社会になって共産党政権の「統制下」に在るにもかかわらず、もなも「少なからぬ中小資本家がいて」、彼らが「政府の役人との間に、贈収賄、汚職、材料の横ながし、原料のゴマカシ等の汚職」を犯していることだ。
じつは共産党政権は建国から2年が過ぎた51年11月から約1年間、官僚と資本家の癒着・不正・汚職を摘発するために「三反・五反運動」と称する大衆運動を全国規模で展開し、多くの民族資本家や私営商業資本家に大打撃を与え、官僚の綱紀を粛正し、以後の社会主義への道を開いたといわれていた。火野らの訪中は、この運動の3年後である。ということは三反・五反運動に対する共産党政権の評価とは裏腹に、どうやら不正・汚職は生き残っていた、或は復活していたとしか考えられない。
ここでやや横道に逸れるが、共産党治下の不正・汚職に就いて少し振り返ってみたい。
台湾生まれで仙台の第二高等学校から東北帝大医学部に学び、日本敗戦を機に台湾経由で北京入りし、49年の建国前後に共産党入党。北京大学経済学部に学び、中共中央編訳局図書館長や北京大学客員教授を務めた楊威理という人物がいるが、共産党治下での痛恨極まりない生活を回想した彼の『豚と対話ができたころ』(岩波書店 1994年)に、以下のような、実に興味深い記述が見える。
「一九六三年、河南省などの農村調査の文献を見る機会があったが、文献が私に与えた印象は、陰惨でぞっとするものであった。富むものは富み、貧しい者は生活のどん底に押しやられている。農村の幹部は悪辣を極め、汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前のこと、投機買占めが横行し、高利貸しが流行り、一口でいえば、農村は生き地獄そのものである」。
火野らの旅行が1955年で、その2年後には反右派運動が展開され、その翌年の58年には大躍進に突入し、わずか3年間ほどで4500万人ともいわれる餓死(公式には「非正常な死」)が発生した。63年といえば、大躍進の大失敗からの回復の兆しがみえはじめた頃だ。そんな緊張情況にもかかわらず、「汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前」だったというのだ。
51年から52年の間に人民を大動員して三反・五反運動を展開したにも拘らず、3年後に火野らが訪中した時には、もう「贈収賄、汚職、材料の横ながし、原料のゴマカシ等の汚職」が復活していた。さらに大躍進の痛みも癒えぬ63年には、既に「汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前」。その数年後には「魂の革命」「自己犠牲」を掲げた文革(66年~76年)が発生したものの、大混乱の10年が過ぎると「文革の10年間は大後退の10年だった」という総括で幕引き。かくて国を挙げてのカネ儲け路線を驀進。となれば不正・汚職が全国に蔓延したとして何の不思議もあろうわけがなかった。
建国以来60数年、不正・汚職はゾンビのように息を吹き返してきた。政治なんぞより幾層倍も「むずかしいもの」は、汚職・不正が骨の髄まで滲み込んだ漢族の体質改善だ。《QED》