【知道中国 984】       一三・十・念二

  ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の14)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
 
 寄宿舎、託児所、工員住宅などを含む工場を見学したが、案内者が自慢するほどのこともなかったようだ。一行の中の「国鉄労組の連中も、日本の方がりっぱだといっていた。しかし、やはり、一行の大部分の人たちは、すばらしい、感心した、とい言葉をくりかえしている」のであった。

 翌25日は雨のなかでの漢口の見学だった。
 「昔はどこの街にも城壁や家の壁に、『仁丹』『老篤眼薬』『大学眼薬』『若葉』『味之素』などの広告文字がデカデカをだされてあった。そのほとんどは消し去られたが」、「民家の壁に黒黒となお『仁丹』の文字が残っている」のに気がついた。

 一行の中には戦時中に中国各地に滞在し「中国通」を発揮している副団長のような人もいるが、大部分は口を噤んでいる。だが、「沈黙している連中のなかにも、戦時中いた者があるらしい」。そこで火野は、「戦争中、中国にいたということは、占領者たる日本軍の一員として、なにかの任務についていたということだから、下手すると戦犯呼ばわりされる。そういう人は私同様に、現在の中国を歩くことに身のちぢむ思いをしているであろうか」と考え、続けて「それは個人的な内面問題であると同時に、日本人の責任という問題にもつながっているので、私は大切なことを考えている」と綴るが、そういう問題を話し合えるような雰囲気が一行にはまだ生じてはいないらしい。

 この日の最初の見学は中央人民政府鉄道部(省)の車両修理工事だった。一行が先ず通された二階の応接室の正面に掛けられていたのは、「唇の下にイボがある」「巨大な毛沢東主席肖像画」だった。「これはどこに行ってもある」ということだから、文革当時ほどではないだろうが、すでに毛沢東に対する個人崇拝は始まっていたことになる。

 同時に「中国政府が各国のさまざまの団体を招待すると、視察のスケジュールを作り、そのプランにしたがって案内するので、もはや順序や様式がちゃんと紋切り型にととのっているようである」と記されているところから、すでに招待外交が本格始動していたということだろう。

 所長が登場して工場に関する紋切り型説明を行った後、革命において同工場で展開された血の労働運動史を語ると、「一行中の労働運動家、国鉄労組の若い代表、左翼教授たちの眼がいきいきと輝く」。そして例の常久が通訳を介して「われわれ日本の労働者も、あなた方の輝かしい勝利の記録にならって、資本主義や帝国主義とたたかいます。どんな困難があってもかならず革命を成就させる決心です。どうぞ、お二人ともそれまで長生きして、日本の革命を見て下さい」と、日本革命への“固い決意”を披瀝する。それを聞かされた「老闘士は返答に窮したように当惑した微笑をうかべ、黙ってうなずくばかりだった」。

 それもそうだろう。その「老闘士」からしてホンモノとはいい難い。だいいち彼らにとって“日本革命との連帯”など、なんのことやら莫明其妙(チンプンカンプン)だったはず。相手は「視察のスケジュールを作り、そのプランにしたがって案内する」。であればこそ、登場してくる「老闘士」だって、それなりに振る舞うべく配された演者と看做すことができたはずだからだ。

 それはともかく、こういった場面にでくわすと感極まり、「どんな困難があってもかならず革命を成就させる決心です。どうぞ、お二人ともそれまで長生きして、日本の革命を見て下さい」などと過剰に反応してしまう常久のような日本人が、往々にして見受けられる。文革中、この手の不謹慎極まりない日本人が“大量・異常発生”したものだが、尖閣をめぐって“利敵言動”を繰り返す連中をみていると、恥曝しは後を絶たないようだ。《QED》