【知道中国 985】      一三・十・念七

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の15)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
 
 所長による工場における「労働保険、労働保護、生産奨励、合理化奨励、競争奨励、文化班、文芸活動、厚生運動、などの話」が終わり、一行は工場内を見学。「スウェーデンや東欧の機械のなかに点々と日本の機械がまじっていた」。もちろん工場内では写真撮影禁止。

 一行には企業経営者も加わっていて、「革命やストライキが好きでない」彼らは、工場内の「反対驕傲自慢的情緒(自惚れ慢心するなかれ)」のスローガンを目にして、「会心の面持ちで」、「赤い国の労働者だからといって志操堅固な者ばかりではないんだねという」や、すかさず通訳が「大勢の労働者のなかには意識が低くて、革命の意義を解しない者もあります。それで業余学習を徹底的にやって、思想改造をするよう努めています」との所長の言葉を伝える。

 なんとも絶妙なタイミングだが、招待者側の狙いは、やはり一行のなかの「革命の意義を解しない者」に対する「思想改造」だったはずだ。「革命やストライキが好きでない」日本人を中国滞在中に「思想改造」して帰国させ、「革命やストライキが好き」な雰囲気を日本国内に醸成させることが、火野らを招待した狙いだったように思う。

 工場内の見学の終えた一行は「二七老工人休息室」に向かった。「二七」とは、共産党によってはじめて結成された労働組合が襲撃され多くの犠牲者が生まれた1923年2月7日を指す。休息室には事件当時の「血にまみれた陰惨な写真が羅列」されていた。するとたちまち「例によって、すばらしいなあと感嘆の声がきこえる。常久さんがもっとも感動の先登で、日本革命のために、帰国したら早速『二七事件』でもひきおこさねばといったほどの張りきりかたである」。どうして常久のようなオッチョコチョイがいるのだろう。こういう手合いこそが、中国側の掌の上で小躍りしながら、さももっともらしく振る舞ってみせる反日日本人ということになる。政治家、経済人、文化人、学者、メディア関係者、芸能人などなど、常久の“後輩”が後を絶たないことこそが大問題だ。反日日本人、撃つべし。

 次に一行は、事件の指導者が銃殺され、同時に事件を抑えた側の指揮官が人民裁判の末に銃殺された現場へと案内される。

 「その敵味方二人の血で彩られたという場所は、ありふれた黒い地面であって、なんの標識もしてない。そうと聞かされなければわからない。しかし、革命は血で血をあがなうものだとわかっていても、殺した男を殺された男と同じ場所にわざわざつれて来て殺すというむざんさが、輝かしい勝利の記録だということは奇妙な戦慄をおぼえた。そんなむごたらしい場所を示すというのは勝利者が得意であるからにちがいないが、私は長くその場所を見ているに耐えられなかった」と火野は述懐するのだが、ここでまた常久がオッチョコチョイぶりを如何なく発揮してくれた。

 「『ここに記念碑でも建てるべきだな』/常久さんはそんなことをいっている。その言葉に同感している者も何人かあった」そうな。

 「殺した男を殺された男と同じ場所にわざわざつれて来て殺すというむざんさが、輝かしい勝利の記録だということは奇妙な戦慄をおぼえた」火野に対し、「そんなむごたらしい場所」に「記念碑でも建てるべきだな」と感嘆の声を挙げる常久。一行を「そんなむごたらしい場所」に立たせることも、中国側が仕掛けた「思想改造」の一環ではなかったか。

 火野は「殺した男を殺された男と同じ場所にわざわざつれて来て殺す」共産党に「奇妙な戦慄をおぼえ」るが、それが興亡止まない民族の血のなせるところというものだろう。

 帰路につく。一行の乗った「自動車のまわりに子供が一杯たかっている。貧民たちの子どもらしくみすぼらしい服装だ。私たちを珍しがって追っても散らない」。《QED》