【知道中国 986】     一三・十・三一

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の16)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
 
 なぜ、こんなに子供が多いのか。一行は、「解放後、急速に子供が増えたことも革命現象の一つだと聞かされ」、火野は「それも労働者の生活の向上、衛生愛国運動による伝染病の激減と健康の保持、母子に対する保護などから結果したもののようである」と綴る。

 だが政権基盤を固めた新王朝が前王朝の残党などの反対勢力を根絶し全土を制圧し、社会を安定させて暫くすると、人口が爆発的に増加する。これこそが有史以来繰り返されてきた中国史のサイクル。ということは「急速に子供が増えたこと」は共産党による「革命現象の一つ」でもあろうが、中国史で繰り返されてきた「現象の一つ」と捉えてみれば、共産党も中国史のサイクルからは逃れられない。新も旧もなく、中国は中国だったわけだ。

 どうやら「急速に子供が増えたこと」は共産党の政権基盤が安定化し威令が全国に及んだことを示す傍証のようでもあるが、やはり見逃せないのが毛沢東の人口論だ。じつは「ヒトが1人増えれば、口は1つ増えるが手は2本増える。ゆえに生産は消費に2倍する」とする毛沢東は、口を消費に手を生産に例え、産めよ増やせよと、人口増加を大歓迎した。

 この考えに真っ向から反対したのが北京大学の馬寅初(1882年~1982年)だった。人口の増加は必ずしも経済成長には結びつかないばかりか、社会発展の整合性に齟齬を来たし、却って経済を停滞・退化させ社会混乱を招く。国家を発展させるためにはしかるべく人口を制限しなければならない。計画出産を進めなければならない、というわけだ。

 20世紀初頭にアメリカに留学し、エール大学に学んだ馬は1920年代から中国における人口増加を問題視し、55年の全国人民代表大会では人口統制の必要性を表明している。57年になると2月に毛沢東によって招集された最高国務会議で計画出産政策を提案し、6月の全国人民代表大会では正式に国策としての計画出産を提案したほどだ。これを文章化した「新人口論」は、翌7月には共産党機関紙の「人民日報」に掲載された。

 ところが、である。この辺りから雲行きが怪しくなってくる。毛沢東の忠実なる“番犬”であった陳伯達と康生が、「新人口論」はマルサス主義の理論だと騒ぎ始めたからだ。マルサス主義とは18世紀末の経済学者のマルサスが唱えた理論で、「幾何級数的(最近では指数関数的というらしいが)に増加する人口に対し、食い物などの生活資源は算術級数的にしか増えない」、つまり人口が増えれば増えるほどに食い物は不足する、という極く当たり前の理屈だ。これを最初に批判したのがマルクスだった。

 かくてマルクスを信奉する共産主義の信徒にとっては、マルサス主義は不倶戴天の敵ということになる。加えて馬寅初の考えは、人口増加は生産拡大に結び付くという毛沢東の人口論を否定するわけだから、“番犬”たる陳伯達や康生がそのまま放っておくわけがない。60年1月には北京大学長の椅子から放りだされ、故郷に蟄居閉門の身となった。もちろん文革当時は公衆の面前に引きずりだされ、紅衛兵からの悪罵・暴行は数知れず。やがて改革・開放政策を決定した78年12月の共産党11期3中全会で新人口論が再評価され、翌年9月には名誉回復がなされた。だが半身不随の体が正常に戻ることはなかった。

 馬寅初への仕打ちを、現在では「錯批一人、誤増三億(たった1人を誤って批判したおかげで、3億人も誤って増やしてしまった)」とするが、年代的にいって50年代末から文革期にかけて「誤増」した「三億」が、いま50代から60代に当たる。ならば現在の金権・金満・超格差・環境破壊社会の中核を担っているのは「誤増三億」の世代になるだろう。

 考えてみれば建国後の「革命現象の一つ」によって急速に増えた子供たちが、ちょうど文革期の紅衛兵世代に当ろうか。ならば「革命現象」がなければ、習近平世代はこの世に生を享けてはいなかったことになる。毛沢東万歳か・・・ウン、判らなくもない。《QED》