【知道中国 987】 一三・十一・初一
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の17)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
一行を「珍しがって追っても追っても散らない」子供たちが、その時から11年が過ぎた66年夏に勃発した文革において、毛沢東教の狂信徒たる紅衛兵となって暴れ回ろうとは、まさにお釈迦様でも、いやマルクス様でも気がつかなかったはずだ。
「まったくどこへ行っても子供が多い。昔は子供捨て場がいたるところにあったが、無論そんなものはなくなっている。群がる子供たちをかきわけてやっとバスに乗り、私たちは血なまぐさい戦跡を後にした」と綴るが、いやいや仔細に探訪してみれば、「子供捨て場」に出くわすことができたかも知れない。
昼食後、一行は「赤い国同志の親善競技がおこなわれる人民広場へ行く」。「中国、チェコスロバキア、ブルガリア、三国選手が旗を立て、楽隊につれてグランドに入ってきた」。
一行は中国対ブルガリアの女子バレーを観戦するが、「ブルガリア選手のたくましさはおどろくばかりだが、上シャツもパンツも短くてストリップのようだ」。一方の中国選手はよほど貧相にみえたのだろう、火野は「体格の差がすでに勝敗を決定的にしていた。ネットの高さが背の低い中国選手には無理で、・・・一方的にしてやられた」。男子にしても「やはり体力の差はいかんともする術がなかった」と、火野は綴る。現在の中国のスポーツ選手の体格を思えば、まさに“隔世の感”がするが、当時の中国は、やはり貧しかったのだ。
夜の漢口平和委員会による招待宴が終わってから、火野は「同室の佐々木さんと二人でぶらりと街にでる」。
「まだ十時にはならないのに、ほとんどの店がしめている。しかし、どういうわけか人通りは多く、暗く黒い街に紺色の服の男女が奇妙に忙しげな足取りで往来している」。「どんな狭い露地に入っても昔のような危険感はすこしもない」。「ボロボロの人力車が荷物を積んでときどき通る。なくなったときいていた人力車が駅前にズラリとならんでいるのを奇妙に思ったが、人間をのせる車はなかった」
「暗く黒い街に紺色の服の男女」――当時の中国の街を想像させるに十分な描写だろう。
やがてホテルに戻ってみると、「事務局の部屋で宴会がひらかれている。二次会らしい」ビールを取り寄せ、火野も合流する。天理教の布教師が「深田女史とダンスをしたり、印半天を着て天理教の踊りと歌をやったり」、他の人が「東京・北京」や「原爆ゆるすまじ」などを合唱したり・・・「アジアの友よ同胞よ、アジアに光を掲げよう、激しい嵐に、負けないで、太陽の情熱を燃やそうよ、美しき友情は、東京・北京を結ぶ・・・東京・北京、東京・北京」なんて歌詞だったように覚えているのは、中国語を習い始めた半世紀ほど昔に唱わされたからだ。
我が思い出は切り上げ、火野らの宴会に戻る。
唱ったり踊ったりで大騒ぎだったらしく、「あんまり騒ぐと反革命だといって批判されるぞと誰かがいった」。だが、監視役としか思えない例の亀田は「ただ微笑を浮かべて黙って見ていた」だけだ。この二次会を、「新中国に入って以来の奇妙な圧迫感、息づまるほどの緊迫感が期せずしてもとめた吐け口であったとすれば、いっそうたあいがないわけである」と、火野は振り返る。
火野が部屋に戻った後、宴会は「階下のチェコスロバキア運動選手から注意をうけた」ほどに盛り上がったようだ。「出発以来、口を酸っぱくして、恥かしくない統制ある行動をとり、批判されるような言動をつつしむようと注意していた橋中事務局長も、二次会の有力メンバーだった」という。事務局長ドノも「新中国に入って以来の奇妙な圧迫感、息づまるほどの緊迫感」に苛まれていたはず・・・親中派もツライ。親中お察し申し上げ候。《QED》