【知道中国 1511回】                      一七・一・初五

――「其民は頑冥不靈を以て世界到る處に拒絶せられんとす」(教学4)

教學參議部『清國巡遊誌』(佛敎圖書出版 明治三十三年)

 

さすがに浄土真宗の門主というべきだろう。香港では宿舎とした「クヰースロードのウヰンゾルホテル」には、「暫くあり上野領事、三井物産會社支店長長谷川某、橫濱正金銀行支店長某等の來訪するあり」。

 

当時の香港の人口は「二十七萬餘其二十萬は支那人なり、日本人の在留するもの三百餘名あり」。元来は「磽?不毛瘴烟癘霧の蠻地」でしかなかった香港を「今や東西兩洋貿易の中心點」であり「東洋一の寶庫と爲した」るのは、「要するに英人獨特の堅忍不抜の精神」であった。「剛毅なる英人は一難を經る毎に愈々其特質を發揮し、遂に現今の好果を収むるに至れり」と、イギリス人の植民地経営への努力(執念?)を高く評価する。

 

2月2日、香港から珠江を遡って広州へ。3日には「廣州市城を巡覧」し古刹などを訪ねるが、清国政府が経営する外国語学校である「廣東同文館日本語教授」の長谷川雄太郎などを引見している。

 

じつは内地旅行を予定していたが、当時は旧暦の12月末に当り「海賊の出没多く、舟行危儉にして現に數日前、彼地に向へる汽船」が海賊に襲われたこともあり、「直に香港に歸航するに決」した。

 

当時の広州は「商運大に進歩し、貿易日に盛」ん。「人口二百五十萬と號す」が「日本人は僅に三十名」。「一般の風俗剽悍にして亂を好み。無頼の惡徒群を爲して往々良民を害するに至る」というから、経済は?栄している一方で、ゴロツキが徒党を組んで一般民衆をクイモノにしていたということだろう。ここで「無頼の惡徒」を「きょうさんとうかんぶ」と読み替えたら、21世紀初頭の現在と大差ないともいえそうだ。やはり“民族の伝統”は不滅のようだ。

 

11日、上海着。早速、「小田切總領事來訪、次で本邦人十數名の來訪あり、(在上海の)大谷派別院輪番佐野即悟次で亦來る」。次いで「杭州學生監督香川?識學生數名を率て來り諸事を斡旋せり」。ということは、すでに大谷派は上海に、西本願寺は杭州にと浄土真宗両派は布教のために関係者を派遣していたということか。

 

14日に郊外の「加特利克教會の寺院竝に孤兒院を訪ふ」。10数名のフランス人宣教師が常駐しているとのことだが、彼らは「服装辮髪全く支那風に粧ふて、自在に支那語を操れり」。礼拝堂、教室、図書館、孤児院などの諸施設があるが、「圖書館の設備は就中最完全せるが如し、洋書は勿論大抵の漢書は之を貯蔵せり」。「孤兒院には未就業の孤兒百餘名あり、支那人の牧師を以て保護監督と爲せり、人誰か一見して其忍耐の堅固なるに驚かざらん」。かくして「一行參觀の際無限の感慨を發せり」。

 

ところで日本は日清戦争後、李鴻章など清国側要人の要請を受け軍事顧問(正式名称は「清国応聘将校」)を送り込んでいるが、これが陸軍における中国情報専門の支那通を養成するコースの1つとなっていく。1902年に陸軍大臣は①日本の対清国政策における重要な柱である清国軍政改革に努めよ。②日本の実力を扶植することに努めよ。③任地での情報収集に努めよと訓示しているが、加えて清国在住の外国人を刺激しないよう極力留意し、自らの身分を公言せず、軍服を避け支那服を着用するよう勧告している。

 

一行が上海郊外の教会で出会った時、フランス人宣教師は「服装辮髪全く支那風に粧ふて、自在に支那語を操れり」というから、すでに相当の期間を上海で過ごしていたと思われる。いわば我が陸軍大臣訓示より早い時期から、フランス人宣教師は現地社会に溶け込んでいた。フランスがそうならイギリスもロシアもドイツも、ましてやアメリカだって日本に先行していた・・・やはりインテリジェンス面でも日本は大いに出遅れていた。《QED》