【知道中国 988】       一三・十一・初三

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の18)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 翌朝は雨。「今朝は熱湯が出たので、バスに入って気持ちが良かった」というから、外国からの招待客用の、しかも漢口という大都会のホテルでも、蛇口を捻ればいつも熱湯が出るというわけではなかったわけだ。これが建国から6年が過ぎた中国の現実だったことを、やはり記憶に留めておくべきだろう。

 「故国に便りをかく。中国に入ってはじめての通信である。新中国では郵便物は検閲される。事前検閲はないが、封書などは開封されることが多く、日本にとどくかどうかわからない」と火野が逡巡していると、「例によって、常久さんが、特に火野さんは要視察人だから、手紙は全部しらべられるよなどというので、私もそんなことがあるかも知れぬと思ったりして、通信をひかえていた」。それでも火野は、「やはり内容は検閲されてもさしさわりのないように要心し」ながらハガキを書いている。

 視察先の華中工科大学に向かうべくホテルの表にでると、「一行の中に異様な服装の者が一人まじっているのが、たちまち注目をひいた。中国の工人服に工人帽をかぶっている。国鉄労組の若い松坂君だった。高柳さんは工人帽だけをかぶっていた」。またしてもオッチョコチョイ野郎だ。どうして、こういったオッチョコチョイが飛び出すのか。そういえば文革当時に中国に出かけ、毛沢東語録を書いた小さな看板を首から下げて飛行機に乗り込み、あるいは中国の街を歩いた日本人――主に社会党左派系のオッチョコチョイだったはず――も少なくなかったと記憶している。この種の茶番劇を嬉々として演じる浅墓さが、なんとも惨めったらしくて情けない。こういったスタンド・プレーを見て、おそらく大多数の中国人は「中日友好万歳」ともろ手を挙げて賛同しただろうが、腹の中では漢奸ならぬ“倭奸”とでもいって北叟笑んでいたに違いない。

 現在でもそうだ。尖閣を釣魚などと呼び、中国に出かけていって歴史的に中国領であるとか、棚上げは田中・周による日中双方首脳間の合意事項だなどとの広言する輩を、中国側は表面的には大歓迎しながら、腹の底では「鴨ネギ」とバカにしているにはずだ。オッチョコチョイ野郎が個人的に弄ばれることは一向に構わないが、それが延いては日本に、そして日本人全体に及ぶことを見過ごすことは、断じてできないのである。

 一行が視察した華中工科大学は「ひろびろとした荒野の中に新築された学校だが、まだ半ばしか完成して」いなかった。教務主任は「党と政府とはこの学校に期待するところが大きいので、莫大は費用をかけ、・・・将来は十二万平方メートルに拡張される」との説明があった。科学技術教育、重工業の国家建設にとって喫緊の課題だったはずだ。

 そこで常久が学生の出身階級の構成比を尋ねる。すると労働者農民の子弟は15%との返事である。それを聞いた常久は「あとはどういう階級の出身なのです?」。返答は、「民族ブルジョワジー、地主、資本家、商人、などです」。

 この答えに常久は「どうにも解せぬという顔つきをしたが、それ以上は質問しなかった。革命によって資本家地主をたおした中共政府の建設面の人材として、その資本家地主の子弟が教育されているということは勘定があわぬと思ったらしいが、あまり突っ込んでは大人気ないと笑われそうな気がした様子であった」。

 ともかくにも広大な国土に膨大な人口である。「革命成就せり」と雄叫びを上げたところで、短期間で「労働者農民」の天下になっているわけがないし、それは不可能だ。表向きは労働者農民兵士の党であり国家であると共産党政府が内外に向けて粉飾しようが、現実的には目に一丁字もない彼らに工科大学で学ぶほどの学力は望むべくもないはずだ。そこに気づかないと、本当に「大人気ないと笑われ」るゾ・・・判ったか。オイッ、常久!《QED》