【知道中国 1510回】                      一七・一・初三

――「其民は頑冥不靈を以て世界到る處に拒絶せられんとす」(教学3)

教學參議部『清國巡遊誌』(佛敎圖書出版 明治三十三年)

 

ついでドイツの清国侵攻ぶりを解説する。

「三十年前宰相ビスマルクはリヒトフオヘン氏をして遍く清國の沿岸を跋渉して形勝の地を調査せしめしに此時氏は已に膠州湾の必要を復命せり」と記すが、「三十年前」といえば明治維新からさほどの時は経っていない。やはり日本は西欧列強に較べて“出遅れ”ていた。書物の上の中国に関するかぎり西欧列強に較べ圧倒的な知識量を備えていた日本だが、現実の中国については西欧列強の後塵を拝することとなった。この事実を日本人は記憶の底に牢記しておくべきだろう。江戸期を通してバーチャルな中国を相手にしてきた日本と違い、西欧列強は生身の中国に立ち向かい自らの征服欲を満たそうとしていたわけだ。

 

ロシアも膠州湾に食指を動かしていることを知ったドイツは、1897年に山東省で宣教師殺害事件が発生するや「好機逸すべからずと爲し直に東洋艦隊を派し」て膠州湾を占領し、「翌年三月七日を以て同灣の借得と併せて山東の鑛山採掘權、山東鐵道敷設權とを得たり」。

 

以上を要するに、既に「清國は清國にあらず列強の清國」となってしまい、「名實共に滅亡に歸するの秋ならずんばあらず」であった。かくて「嗟呼清國の滅亡、我邦は何等の影響を蒙ること無しに獨り晏然として始終傍觀の地に立つを得べけんか」と自問自答する。

 

アジアの仏教国の現状に目を向ければ、「カンボヂヤ、安南、緬甸の諸王國前後相次滅亡に就き、其他土耳古、暹羅、朝鮮、支那或は獨立國たり或は半獨立國たりと云へども、其實は皆半滅亡の悲境に瀕する」ばかりだ。いわばアジアの仏教国において「純粹に名實共に獨立國の面目を完全に保有するは獨り我日本帝國あるのみ」。であればこそ、我の責任此に至りて亦重大且大ならずや」ということになる。

 

かくして日本の仏教徒こそが「重大且大」なる責任が負うべき立場に在るわけだが、「我國佛教徒の特に注意すべき點は、此の如く頻々滅亡に就て諸國は大概佛教國にして其民は多く佛教徒」ではあるが、「之に反して其征服國者即ち其勝利者は、悉く耶蘇教國にして其れ民皆耶蘇教徒なる事」だということだ。

 

当時、国際的に論じられていた「所謂支那分割なる問題」が事実であるかどうかは別にして、「東亞の形勢寔に此の如しとすれば、一面に於ては我邦が自衞の必要上庶幾は補翼の一端となり、一面に於ては若能ふべくんば、目下萎靡頽廢の極に達せる清國の佛教徒を鞭撻して大に彼徒の警醒を促し、セメテ幾分なりとも佛教が國家の一要素たるべき本來の面目を了解せしむることを得ば、何ぞ必ずしも今日の清國に取りて、尚能く一滴靈藥の功無しとせんや」。

 

なにやら同じことの繰り返しになってしまうが、要するに「清國布教は我佛教徒の急務にして且其責任なり」。「深く内地を跋渉して前朝の遺墟を吊ひ、古今盛衰の跡を訪ふて、窃かに将來復興の策を畫する等是将た我佛教徒の責任にあらずと云ふべけんや」。かくして親鸞から数えて22代目門主の鏡如は「清國巡遊」に旅に立つ。

 

出立に先立ち清国の姿を、「我の駸々として文明に向ふに反し彼は依然舊態を脱する能はず、其國は未だ未開野蠻として永く文明國の伍伴より擯斥せられ其民は頑冥不靈を以て世界到る處に拒絶せられんとす」。加えて太平天国の乱によって「内地は甚敷荒廢し」、打ち続く黄河の氾濫は「數百萬の生民をして饑餓の慘境に彷徨せしめ」ている。かくて「之が爲め一般の人氣非常に惡く、草賊群を爲して往々行旅を刧かす者あり」と見做す。おそらくこれが、当時の日本における清国に対する一般的な見方であったに違いない。

 

一行は明治32年以月19日に神戸を発ち、関門海峡を経て長崎へ。やがて門徒の盛大な見送りを背に玄海灘へ。上海に立ち寄った後、26日には香港に投錨する。《QED》