【知道中国 1508回】                      一七・一・初一

――「其民は頑冥不靈を以て世界到る處に拒絶せられんとす」(教学1)

教學參議部『清國巡遊誌』(佛敎圖書出版 明治三十三年)

 

いずれ内藤湖南は『支那論』(1914年)、『新支那論』(1924年)で再び論ずることとして、『支那漫遊 燕山楚水』と同じ明治33年に出版された『清國巡遊誌』を取り上げたい。

本書は「昨春新門主猊下清國巡遊の途に上らせらるゝや(中略)幸にして何の御恙も無く御歸山相成り一同初めて安堵の思ひを爲せり」で始まる一文に次いで「御親諭」が示され、さらに「凡例」と続いた後に本文に移る。

「新門主猊下」とは誰なのか。教学参議部とは浄土真宗西本願寺に属する部局であり、本書執筆に当ったと思われる朝倉明宣は、明治31(1898)年6月、土岐寂静と共に西本願寺から開教視察使としてセイロン(現スリランカ)に派遣されている。じつは西本願寺は明治29(1896)年1月の台湾を皮切りに、同年10月にはオーストラリアと南洋の島々にも開教使を派遣した。当時の門主は開祖親鸞から数えて21代目の明如。だとすると、ここにみえる「新門主猊下」とは22代目の鏡如こと大谷光瑞(明治9=1876年~昭和23=1948年)ということになる。

本書によれば新門主は、教学参議部総裁の武田篤初以下8人の随行員と共に明治32(1899)年1月19日に神戸を発ち、上海、香港、広東、上海、杭州、南京、漢口、北京を周り、天津を経て同年5月3日、「雲霞の如き出迎の中馬車にて御機嫌美はしく御歸山」した。この間の記録が『清國巡遊誌』であり、朝倉明宣は「奉仕局用係」として随行している。

「余が昨春清國巡遊の途に上りたる趣旨は大畧本書の序論にも在る通り國家の前途と宗教の将来とに付て深く考ふる所あるに因る」と書き出された「御親諭」は、「顧ふに清國と我邦とは啻に同文同種のみならず又實に同一佛教を奉ずるの國なれば彼にして若し一朝爪分の虞あらんか我獨り之が影響を蒙らざらんや、然ば則其蒙を開導し其陋を啓發し其をして文明の域に進ましめ依て以て列強が窺窬の念を未然に防遏せん事は固より善隣扶植の大義なりと云へども抑亦國家自衞の必要上止むべからざるものあるに因ると云はねばならぬ」と説く。

つまり今回の清国巡遊は物見遊山などではなく、同じく仏教を信仰する清国が西欧列強によって分割支配された場合、その影響は我が国にも及ぶ。だから清国の「蒙を開導し其陋を啓發し其をして文明の域に進ま」せることで西欧列強の野望を打ち砕くことは、隣国としては当然のことであり、また我が国の自衛のためにも必要だ。いわば仏教をテコにして清国の自存を手助けすることが、我が国の自衛に繋がるというわけだ。

そこで肝心の清国の仏教だが、「現今殆ど衰殘の極に達し」てはいるが、「其國に於ける菩提の種子は未だ全く枯渇せるものとは觀るべからず」。そこで清国仏教の再興をなすべきは「我邦の佛教徒を除いて他に其の人はない」とする。

次いで「凡例」には、「清國渡航は近來一種の流行の如」きだが、「要するに東洋氣運の影響にして畢竟清國なる問題が極東に於ける歐州列強の競争より端なく我邦人の注意を喚起し其成敗興亡が我の利害得喪に極めて密接の關係を有するものなる事を自覺したるものの結果にほかならず」とある。つまり清国をめぐる「歐州列強の競争」の結果が我が国の存立にも「密接な關係を有する」と知るようになったからこそ、政治家・実業家・文学者などと並んで「宗教家も亦将に大いに行かんと」するようになったわけだ。

どうやら新門主は清国立て直しのために清国仏教の再興を目指しているわけであり、清国巡遊の目的は、そのための視察と位置づけられるだろう。かくて「地底に埋没し四億の民衆をして飢渇の境に彷徨せしむ是れ我邦仏教徒が決して傍觀する能はざるところ将に憤然起て自ら其衝に當るの大覺悟を爲すべき秋にあらずや」と、高らかに宣言した。《QEB》

【知道中国 1508回】                      一七・一・初一

――「其民は頑冥不靈を以て世界到る處に拒絶せられんとす」(教学1)

教學參議部『清國巡遊誌』(佛敎圖書出版 明治三十三年)

 

いずれ内藤湖南は『支那論』(1914年)、『新支那論』(1924年)で再び論ずることとして、『支那漫遊 燕山楚水』と同じ明治33年に出版された『清國巡遊誌』を取り上げたい。

 

本書は「昨春新門主猊下清國巡遊の途に上らせらるゝや(中略)幸にして何の御恙も無く御歸山相成り一同初めて安堵の思ひを爲せり」で始まる一文に次いで「御親諭」が示され、さらに「凡例」と続いた後に本文に移る。

 

「新門主猊下」とは誰なのか。教学参議部とは浄土真宗西本願寺に属する部局であり、本書執筆に当ったと思われる朝倉明宣は、明治31(1898)年6月、土岐寂静と共に西本願寺から開教視察使としてセイロン(現スリランカ)に派遣されている。じつは西本願寺は明治29(1896)年1月の台湾を皮切りに、同年10月にはオーストラリアと南洋の島々にも開教使を派遣した。当時の門主は開祖親鸞から数えて21代目の明如。だとすると、ここにみえる「新門主猊下」とは22代目の鏡如こと大谷光瑞(明治9=1876年~昭和23=1948年)ということになる。

 

本書によれば新門主は、教学参議部総裁の武田篤初以下8人の随行員と共に明治32(1899)年1月19日に神戸を発ち、上海、香港、広東、上海、杭州、南京、漢口、北京を周り、天津を経て同年5月3日、「雲霞の如き出迎の中馬車にて御機嫌美はしく御歸山」した。この間の記録が『清國巡遊誌』であり、朝倉明宣は「奉仕局用係」として随行している。

 

「余が昨春清國巡遊の途に上りたる趣旨は大畧本書の序論にも在る通り國家の前途と宗教の将来とに付て深く考ふる所あるに因る」と書き出された「御親諭」は、「顧ふに清國と我邦とは啻に同文同種のみならず又實に同一佛教を奉ずるの國なれば彼にして若し一朝爪分の虞あらんか我獨り之が影響を蒙らざらんや、然ば則其蒙を開導し其陋を啓發し其をして文明の域に進ましめ依て以て列強が窺窬の念を未然に防遏せん事は固より善隣扶植の大義なりと云へども抑亦國家自衞の必要上止むべからざるものあるに因ると云はねばならぬ」と説く。

 

つまり今回の清国巡遊は物見遊山などではなく、同じく仏教を信仰する清国が西欧列強によって分割支配された場合、その影響は我が国にも及ぶ。だから清国の「蒙を開導し其陋を啓發し其をして文明の域に進ま」せることで西欧列強の野望を打ち砕くことは、隣国としては当然のことであり、また我が国の自衛のためにも必要だ。いわば仏教をテコにして清国の自存を手助けすることが、我が国の自衛に繋がるというわけだ。

 

そこで肝心の清国の仏教だが、「現今殆ど衰殘の極に達し」てはいるが、「其國に於ける菩提の種子は未だ全く枯渇せるものとは觀るべからず」。そこで清国仏教の再興をなすべきは「我邦の佛教徒を除いて他に其の人はない」とする。

 

次いで「凡例」には、「清國渡航は近來一種の流行の如」きだが、「要するに東洋氣運の影響にして畢竟清國なる問題が極東に於ける歐州列強の競争より端なく我邦人の注意を喚起し其成敗興亡が我の利害得喪に極めて密接の關係を有するものなる事を自覺したるものの結果にほかならず」とある。つまり清国をめぐる「歐州列強の競争」の結果が我が国の存立にも「密接な關係を有する」と知るようになったからこそ、政治家・実業家・文学者などと並んで「宗教家も亦将に大いに行かんと」するようになったわけだ。

 

どうやら新門主は清国立て直しのために清国仏教の再興を目指しているわけであり、清国巡遊の目的は、そのための視察と位置づけられるだろう。かくて「地底に埋没し四億の民衆をして飢渇の境に彷徨せしむ是れ我邦仏教徒が決して傍觀する能はざるところ将に憤然起て自ら其衝に當るの大覺悟を爲すべき秋にあらずや」と、高らかに宣言した。《QEB》