【知道中国 989】     一三・十一・初五

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の19)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 次は、「解放前は地主、官僚、資本家の子弟ばかりだったが、現在は労働者、農民、政府職員の子弟が三三パーセントを占めている」武漢大学である。当初は混乱していたが現在では教育も軌道に乗り、学生は政治活動や社会活動にも積極的に参加している。土地改革にも動員されているようだ。「学費はすべて国家負担、人民奉仕の崇高な品質を養い、卒業後は国家の必要に応じて、おのおの得意の方面へ配属させる」との説明を聞かされる。

 「物理学、化学教室、実験室などを廻る」が、どうやら「こういう設備はちゃちなもので、日本の大学の方がずっとすぐれている。どうかすると日本の高等学校の方がすぐれているかも知れない」。「どの部屋にもロシア語の参考書があって、新中国がソ連一辺倒であることがわかる」。

 教室から出た火野は通訳に大学と武昌の位置関係を尋ねると、通訳は「すぐかたわらの学生にきいた。そして、笑いながら、『答がふるっていますよ。こっちから、毛沢東主席のように、太陽があがり、こっち側に、蔣介石のように、太陽が沈みます。武昌は太陽の沈む方です』」と。一行は「はげしい学生たちの拍手に送られて、武漢大学を辞去。ふたたび雨にけぶる揚子江をわたるころは、すでに黄昏のいろがたれこめていた」

 夜は「上海で製作されたという『山間鈴響馬幇来』」という映画鑑賞が用意されていた。火野は、「雲南にいる苗族が蔣介石の残党によっていじめられているのを中国人民解放軍が救う話。あまりにもたあいがないので呆気にとられた。啓蒙的宣伝映画として、現在の段階ではこれでよいのかも知れぬが、もう少し芸術的な表現が可能なはず」と感想を漏らす。

 ここで「馬幇」について若干の説明を。古来、雲南西部(滇西)はミャンマーの北部や東北部(緬北・緬東北)を通じてインドやイスラム、さらにその西の西欧と繋がっていた。この地域は深い山が重なり、細い道がうねうねと続き、茶葉やらアヘンなどの産物は専らロバの背で運ぶしかなかった。ロバを使った運送業者兼用心棒が馬幇で、仕事柄移動を重ねる彼らは、この閉ざされた山間の世界に外の情報を持ち込む。多くの馬幇を配下として束ねる者の許に多くのカネと情報が集まり、“小皇帝”として一帯に君臨することとなる。神戸港湾荷役の元締めが山口組という強大な組織の長に伸し上がったと同じ仕組みだ。「山間鈴響馬幇来」の題名からして馬幇に扮した解放軍が山間部の集落に入り込み、住民を教育(=洗脳)し、一帯から蔣介石軍の残党を追い払ったというストーリーではなかろうか。

 「山間鈴響馬幇来」に対し火野は、「単なる勧善懲悪的国策映画で、芸術的価値などはない。ところが、この見えすいた筋の映画に観衆は熱狂し、反革命分子が退治されるところになると激しい拍手が場内をゆるがせた」と、一種の驚きの感想を綴っている。

 だが、そもそも火野の感想は間違っている。共産党が映画に求めるのは思想教育の主要な武器でこそあり、「単なる勧善懲悪的国策映画」でなければならない。芸術的価値など二の次、三の次だ。一方、娯楽に飢えている民衆にとっては小難しい芸術映画は不要だ。「単なる勧善懲悪的国策映画」でいいのだ。京劇にみられる軽業のような立ち回りを想像すれば判るだろうが、スクリーンに映し出されるのが人民解放軍であれ蔣介石軍の残党であれ、面白ければそれでいい。感情移入ができ、熱狂させてくれる映画なら十二分に満足だ。思想の教育・宣伝は同時に娯楽でもある。このカラクリを縦横に使ったのが毛沢東であった。

 映画が「終わった途端、観客が消え去ってしまったと思われるほど、迅速に出て行った」ことに火野は驚き、一行のなかに「社会主義的訓練が行きとどいているといって感心する者」があったが、やはり思想教育=娯楽、娯楽=洗脳工作というカラクリを知るべきだ。

 「社会主義的訓練が行きとどいている」・・・ノー天気もほどほどに願いま~す。《QED》